(産経新聞)
http://www.sankei.com/politics/news/150101/plt1501010008-n1.html
https://web.archive.org/web/20150101100613/http://www.sankei.com/politics/news/150101/plt1501010008-n1.html
新年会は元旦の恒例行事。党所属の国会議員だけでなく、民主党の鈴木克昌、維新の党の松木謙公両衆院議員ら小沢氏と関係が深い他党の国会議員ら約50人が参加した。
《おまけ》
☆高平陵の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B9%B3%E9%99%B5%E3%81%AE%E5%A4%89#.E4.BA.8B.E5.89.8D.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AF
247年5月、司馬懿は病気と高齢を理由に政務に関与しなくなった。曹爽と何晏は司馬懿の病は重いとみて、主君をないがしろにするような考えを起こすようになった。さらには、黄門の張当と密かに謀をめぐらし、社稷を危うくせんと図りその期をうかがっていた。司馬懿もまた、密かにこれに対し備えをなそうとしたが、曹爽一派の者たちもやや司馬懿を警戒していた。
この時期李勝は、ちょうど荊州刺史に就任しようというところであった。彼が挨拶のため司馬懿のもとを訪れると、司馬懿は病が重いふりをした。下女二人に両脇を支えさせており、衣服はかけてもずり落ちてしまう。口を指さしてのどの渇きを訴えるので、下女が粥を差し出すのだが、司馬懿が器を持たずに粥を啜ろうとするものだから、粥はみなこぼれて胸元を濡らした。李勝が「貴方様が持病の中風の発作を起こされたという噂はうかがっておりましたが、まさか御尊体がこれほどのことになっていようとは思いもよりませんでした」と言ったところ、司馬懿は辛うじて声を絞り出して言った。「年老いてすっかり病みついてしまっており、今日明日にも死ぬかもしれない。貴殿はこれから并州を治めるわけだが、并州は夷狄の地に近いから、しっかりと備えを為すように。恐らく私はもう君と会えないだろうから、子の師・昭兄弟のことをお願いしたい」。李勝は「私はこのたび帰郷し、故郷である荊州の刺史を仰せつかることとなりました。私が仰せつかったのは并州ではありません」と言うが、司馬懿はその言葉を取り違えて「貴殿は并州に行くのだろう」と言った。李勝は「荊州を仰せつかったのです」と言った。司馬懿は言った。「年老いて耄碌してしまい、貴殿の言っていることが分からなかった。今度帰郷して故郷の刺史になるのか。実に見あげたものである。ぜひとも立派な手柄を立ててくれたまえ」。
李勝は司馬懿のもとから下がった後に、曹爽に言った。「司馬仲達殿は死人にわずかばかりの命が残っているようなもので、肉体と魂とは既に離れてしまっています。ご心配には及びません」。また、別の日にも「太傅[司馬懿]はもう何をなすことも出来ません。いたましいものです」と言った。このため、曹爽らは司馬懿に対し備えをなさなくなった。