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2013年10月16日水曜日

「王陵(硬骨の士であるがゆえに失脚した)」化する山本太郎議員

☆衆参両院で東京五輪成功へ決議 「国民に夢と希望」
(共同通信)

http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013101501001951.html

衆参両院は15日午後の本会議で、2020年東京五輪とパラリンピックの成功に向けた努力を政府に求める決議をそれぞれ採択した。衆院は全会一致、参院は無所属の山本太郎氏が反対した。



小吹伸一
https://twitter.com/kobukishinichi/status/390210329390497793
ごく最近「山本太郎の『秘密保全法阻止全国キャラバン』が永田町で大ヒンシュク、こんなことを扇動する議員があるかと騒ぎになってる」と聞いた。ふむ。永田ムラ八分にあたる行為なわけだ。で、ムラではオリンピック満場賛成(騒ぎの犯人除く)。そういう異様さを打破する者を、皆で送りこんだのだが。



☆王陵

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%B5

王 陵(おう りょう、? ~ 紀元前180年)は、秦末から前漢の人。沛の人。

沛県の豪族で飾り気がなく直言を好む人物であった。漢の高祖劉邦も大成前は王陵を兄として仕えていたことがあった。

劉邦が挙兵し咸陽を落としたころ、王陵は数千の兵を集めて南陽に割拠し、劉邦に従おうとはしなかった。劉邦が項羽と戦うようになると、王陵は漢に属するようになった。

項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王(劉邦)に従うように。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を煮た。

王陵は従属が遅く、また劉邦の宿敵雍歯と仲が良かったことから、列侯に封じられるのが遅かったが、高祖6年(紀元前201年)8月に安国侯(5000戸)に封じられる。

蕭何の後任候補として曹参らと共に挙げられたがその際に劉邦は「馬鹿正直」と評している。

恵帝6年、相国曹参の死を受けて王陵が右丞相、陳平が左丞相となった。

恵帝の死後、呂后は自分の一族呂氏を王にしようとした。王陵にそのことを尋ねたところ、「高祖は『劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て』と白馬を生贄にして盟を行いました。呂氏を王とするのはこの盟に背くものです」と堂々と答えた為、呂后は不機嫌になったが正論である為に怒る事が出来なかった。

同じことを陳平、周勃らに尋ねたところ、「高祖(劉邦)は天下を統一すると自分の子弟を王としました。今は皇太后(呂后)が天下を治めているのですから、呂氏の子弟を王として問題はありません」と答え、呂后を喜ばせた。

王陵は後で陳平らを「君たちは高祖との盟の時にその場にいなかったのか?何の面目があって死後の世界で高祖に会えるというのだ」と責めたが、陳平は「朝廷で主と面と向かって争う点では私は貴方にかないませんが、社稷を全うし、劉氏の後継者を定めるという点では貴方は私に及びません」と答え、王陵は言い返せなかった。

呂后は王陵を疎んじ、呂后元年(紀元前187年)に王陵を太傅に祭り上げて宰相の実権を奪った。王陵は怒り、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、朝廷にでることもなくなった。



☆劉邦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6

この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。

果たしてこの遺言は、のちにすべて的中することになる。劉邦の人物眼の確かさが伺われる。

死後、太子が即位して恵帝となったが、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく呂氏の時代がやって来た。しかし呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、文帝が迎えられ、文景の治の繁栄がやってくる。