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2016年12月7日水曜日

【連衡策】民進党が自民党と「談合」「密約」したような雰囲気が漂っている

☆自民、民進幹事長が会食 (時事通信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161206-00000140-jij-pol

http://archive.is/nGjBZ

自民党の二階俊博、民進党の野田佳彦両幹事長は6日、東京都内で会食した。

自民党の林幹雄幹事長代理、民進党の安住淳代表代行も同席した。

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☆年内の衆院解散を否定 自民・二階俊博幹事長
(産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161207-00000533-san-pol

http://archive.is/fp5la

自民党の二階俊博幹事長は7日、大阪市内で講演し、衆院解散について「年内はない」と述べ、安倍晋三首相による今国会中の衆院解散を明確に否定した。




《おまけ》

☆合従連衡

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E5%BE%93%E9%80%A3%E8%A1%A1

春秋戦国時代、戦国七雄のうち強大になりつつあった秦と、周辺六ヶ国(韓、魏、趙、燕、楚、斉)の外交政策として、いずれも縦横家によって考えられた。

当初、六国は相互に結び、協力して秦の圧力を防ごうとした(合従策)。これに対し、秦は個別に同盟関係をもちかけて六国の協力関係を分断すること(連衡策)によって合従策を封じた。

こうして、最終的に合従策に参加した各国はすべて秦によって亡ぼされ、秦による天下統一が実現することとなった。

(略)

秦に対抗して合従する国に対し、秦と結んで隣国を攻める利を説いて、合従から離脱させたのが連衡である。

連衡の論者は往々にして秦の息のかかったものであり、六国の間を対立させ、特定国と結んで他国を攻撃し、あるいは結んだ国から同盟の代償に土地や城を供出させることを目指した。その代表的な論客は張儀である。

後に范雎は遠交近攻を唱え、遠方の国と手を組み、近隣の国を攻撃する事で、秦の領土を拡張した。





☆八月十八日の政変

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期(幕末)の文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデター事件である。文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)、堺町門の変とも呼ばれる。

(略)

5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃して攘夷を実行に移すが、他藩はこれに続かず、長州藩が欧米艦隊から報復攻撃を受けるに及んでも、近隣の諸藩は傍観を決め込むのみであった。また、攘夷実行を約束した将軍家茂も、6月には京を離れ江戸に帰ってしまった。

この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられた。これは天皇が大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するというものであった。

(略)

大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。8月15日、松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと、 高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った。

会津藩は兵1500名を動員し、政変の中心となった(薩摩藩兵は150名)。