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2016年7月19日火曜日

産経新聞「三宅洋平氏が昭恵夫人を介して安倍晋三首相と意気投合?」 

マキャベリ
https://twitter.com/Niccolobot/status/755315097518473216
民衆の気分というものは、はなはだ動揺しやすいのが特徴だ。それゆえ彼らの支持を得ることはさして困難ではないが、その支持を保ち続けることは大変に難しい。



☆参院選落選の三宅洋平氏 昭恵夫人介し安倍晋三首相と意気投合? (産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160719-00000533-san-pol

http://archive.is/3M672

三宅氏が首相に対し「立場はおのおのながら、国を思い世界を憂う国士として同じ気持ちだと思っています。選挙では多少口を荒らしましたが、失礼します」と伝えたところ、「大丈夫です、それが選挙ですから」との返答があったという。




《歴史の教訓 ~ たとえ動機が至純であっても、仲間たちから疑われてはどうしようもない》

☆赤禰武人

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%B0%E6%AD%A6%E4%BA%BA#.E7.B5.8C.E6.AD.B4

文久2年(1862年)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行い、御楯組に加盟。 同年12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、文久3年(1863年)5月の下関戦争に参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。

元治元年8月(1864年9月)の第一次長州征伐後、赤禰は藩内の融和を図るが、当時の藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が同志に二重スパイとして疑われる契機となる。

更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行うことを危ぶむ赤禰はこれに反対し高杉と対立する。

元治元年12月(1865年1月)、高杉による功山寺挙兵が成功すると藩内での立場を失い、出奔して上方へ赴く。

その後、幕府に捕縛されたが、幕府大目付・永井尚志や新撰組参謀・伊東甲子太郎らは長州藩の鎮撫工作に赤禰を利用することを画策、赤禰は11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤禰が更に疑われる原因となった。

幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認識されていた赤禰の言は全く受け入れられなかった。

工作は成功せず、生誕地である柱島に潜伏していたところを、12月に長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。

赤禰は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。