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2016年4月25日月曜日

ブラジルの左派大統領が失脚しそうになっているがその背後にやはり米国の影が

☆アメリカの共謀? ブラジル大統領排除投票後、主要野党議員がワシントンで会談 (マスコミに載らない海外記事)

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-0e1a.html

http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/480.html

弾劾投票の翌日 ~ PSDBのアロイシオ・ヌネス議員が、ワシントン入りし、三日後、様々なアメリカ高官や、ロビイストや、クリントンや他の大物政治家に近い様々な口きき屋と会談を行う。



《おまけ》

☆ブラジル大統領の弾劾は不正疑惑の議員を使い、米国政府が指揮して行われている可能性が大きい(櫻井ジャーナル)

http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/461.html

http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201604210000/

こうした心理戦ではメディアや広告会社が重要な役割を果たすことになる。1980年代にアメリカではメディアの成果でも規制緩和が進められ、巨大資本に支配されるようになる。



《ブラジル史》

☆ブラジルの歴史 ~ ポプリズモ時代(1945年~1964年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E3.83.9D.E3.83.97.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A2.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881945.E5.B9.B4-1964.E5.B9.B4.EF.BC.89

クアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。しかし、最終的には、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラ州知事の蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。

ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に登用し、フルタードは外資導入による経済成長と農地改革などの社会改革を両立する三カ年計画を立案したが、ゴラールの大統領就任後も前政権以来のインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。

ゴラールは国民投票に訴えようとしたが、1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した。アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。



☆ブラジルの歴史 ~ 軍事独裁政権時代(1964年~1985年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E8.BB.8D.E4.BA.8B.E7.8B.AC.E8.A3.81.E6.94.BF.E6.A8.A9.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881964.E5.B9.B4-1985.E5.B9.B4.EF.BC.89

ブラジル・クーデターによってゴラール政権が崩壊し、4月15日にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、外資導入を進める意図を持って1964年7月に「経済活動三カ年計画」を実施し、インフレ抑制のための緊縮財政や国営企業の民間への払い下げ、公務員の縮小、福祉予算の減少などを行ったが、この結果、国民資本の企業倒産が相次いだこともあり、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。

当初カステロ・ブランコは左翼を追放して軍部の作成した「国家安全保障ドクトリン」に基づく統治を行う以上の意向を持っていなかったが、相対的に窮乏化した国民の軍政への反対は根強く、1965年10月の地方選挙で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝すると、同月中にカステロ・ブランコは強硬路線に転換して戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成を行って11月中には国家革新同盟とブラジル民主運動の二党による翼賛体制が樹立された。

また、外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。