ページ

2015年12月8日火曜日

【沖縄の政情が流動化】アンチ翁長陣営が宜野湾市で集会を開催する

☆告知 12・13「翁長知事の政治姿勢を許さない合同報告県民集会」(宜野湾市)

http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/e/02a7e5035f621d59ebc26c67c4a0b8b5

12月13日、宜野湾市真栄原公民館にて翁長知事の政治姿勢を追求している各団体、及び県議会議員が終結して合同報告県民集会を開催いたします。




《「後方かく乱」の好例》

☆明石元二郎~日露戦争での諜報活動

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E#.E6.97.A5.E9.9C.B2.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A7.E3.81.AE.E8.AB.9C.E5.A0.B1.E6.B4.BB.E5.8B.95

明石の工作の目的は、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus) 率いるフィンランド革命党などのロシアの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。

満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

成果やレーニンとの会見の有無は別として、この点については研究者の間でもほぼ見解は一致している。

このように、明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものであった。

陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。



☆満州義軍

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E7%BE%A9%E8%BB%8D

満州義軍(まんしゅうぎぐん)は、日露戦争中の1904年、ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満州の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。

トップに立ったのは、「花大人(ホアターレン)」として知られた花田仲之助少佐である。彼は、戦争前から、ウラジオストクの西本願寺において僧に化け、「諜報」活動に従事していた。

日露戦争が始まると満州義軍は、同じく馬賊を編成した「遼西特別任務班」と共に大陸の各地で鉄道の破壊や、物資の略奪を行い、ある程度の成果を挙げた。

ロシア軍の後方で活動する満州義軍がロシア軍の将兵に与えた心理的ダメージは計り知れない。

これらの部隊の総指揮を行ったのは、日本陸軍の情報将校の先駆けで現地満州軍の高級参謀だった福島安正である。