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2015年7月9日木曜日

【写真】福島県楢葉町で「多くの町民の帰還を願う」花植えが行われた

☆多くの町民帰還願う 楢葉で国道沿いに花植える
(福島民報)

http://www.minpo.jp/news/detail/2015070923967

http://www.webcitation.org/6ZtEVXC7K

一般社団法人ならはみらいが事務局を務めるならは応援団の主催。町内を花で彩り、古里への帰還を願う気持ちを高めようと企画。




《ロンゲラップ島のケース》

☆科学者にだまされ、島に戻った人々の悲劇
『核の難民 ビキニ水爆実験「除染」後の現実』
(佐々木英基 著)

http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/635

放射能が残っていることはわかっていた。当時科学者は、帰島させる目的をこう語っている。「住民がロンゲラップ島に帰郷することは、すなわち、高いレベルの放射線を浴びた人間が、ふたたび高い放射線にさらされるということです。これは、遺伝的研究をする上で、まさに理想的な状況です。」

また「放射性物質が土壌から食物連鎖を通じて体内に入るまで追跡することができる。」放射線の臓器への影響や半減期、排出なども調査できる。

そのために、当初の被曝者と、このたび初めて放射能を浴びたり食ったりする者とを、わけて調査した。

これは、核戦争もしくは原子力平和利用によって人が放射能を浴びた場合にどういう影響が出るか、動物実験だけでは十分でないので、世界で放射能レベルが最も高いロンゲラップに人を住まわせて検査することにしたのである。島民には「島はもう安全だ。何も問題はない」と説明した。

島でくらし始めた人々には、デキモノ、下痢、それに植物や動物の異変などさまざまな影響があったが、最も顕著なのが女性の出産である。頭蓋骨のない子や骨がなくて皮膚だけの子が生れる。ブドウのような子やクラゲのような子が生れる。こういう子はすぐに死ぬ。女性の95%が流産を経験した。これは一九五四年に被曝した人も五七年以後に被曝した人も違いはない。

一九七五年、島民は米人医師に不信を表明し、検診を拒否した。八五年全島民が島を離れて他の島に移った。

 一九九八年、「ブラボー」から四十四年後にアメリカは、島の一部居住地区の除染を始めた。現在、島民に「島へ帰れば生活は保証する」と言っているが、島民は帰ろうとしない。




《無料動画~「ロンゲラップ島」に関するNHKの番組》

ロンゲラップ島 ~核実験の島 帰還に揺れる島民~

NHK海外ネットワーク 2013年1月26日 放送


太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁周辺では、1946年から13年間に渡りアメリカによって繰り返し核実験が行われてきました。1954年の水爆実験「ブラボー」では、予想外の威力により、日本の第五福竜丸が被爆し、ビキニ環礁から200km離れたロンゲラップ島でも、汚染のため、住民が移住を余儀なくされました。

避難から半世紀以上が経った今、ロンゲラップ島では、島民の帰還計画が持ち上がっています。

島は今どうなっているのか?除染はどこまで進んだのか?島民たちの思いは?

2013年1月に日本から島を訪れた、原水爆禁止日本協議会の調査団に同行取材しました。

http://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?movie=j_worldnet_20130126_2280




《ロンゲラップ島の島民の疎開先を訪問した日本人によるレポート》

http://www.morizumi-pj.com/bikini/bikini.html

その後米艦船に収容され、3年後、「安全宣言」を信じて、実験当時島にいなかった島民も一緒に、帰島した。しかし、残留放射能で島は住める状態ではなかった。

実験当時島外で無事だった人も、汚染されたヤシガニやパンの実、魚などの食物などを通じて内部被曝をしてしまった。



http://www.morizumi-pj.com/bikini/04/bikini4.html

「(住民の帰郷は)高いレベルの放射線を浴びた少数の者が再び高い放射線にさらされると言うことである。このことは、あなたが広島、長崎で行っている遺伝的調査を行う上で理想的な状況であり、重要である。全米科学アカデミー委員会が重要視している一般的には劣性遺伝子と呼ばれているものへの影響を観察できる絶好の機会である」(「マーシャル諸島核の世紀」豊崎博光日本図書センター)とアメリカ原子力委員会生物医学局ベントレイ・グラス博士はチャールズ・ダンハムAEC生物医学局局長に帰島を検討する会議の中で話している。




《おまけ》

☆西部戦線異状なし

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E6%88%A6%E7%B7%9A%E7%95%B0%E7%8A%B6%E3%81%AA%E3%81%97#.E6.A6.82.E8.A6.81

題名は、パウル・ボイメルが戦死した1918年10月のある日の司令部報告「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」に由来している。



☆アドルフ・アイヒマン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3#.E3.82.A2.E3.82.A4.E3.83.92.E3.83.9E.E3.83.B3.E8.A3.81.E5.88.A4

この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した。