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2015年2月1日日曜日

【歴史の教訓】後藤健二さん殺害なら「日本も有志国連合に参加してイスラム国に仇討ちしろ」との世論が(意図的に)巻き起こされる

邦人人質事件で、新たな画像がインターネット上に投稿された。後藤さんらしい男性が映り、日本政府が確認中。
2015/02/01 05:47  【共同通信】


インターネット上に投稿の映像は、「イスラム国」を名乗るグループが流した。首切られた男性が写っている。
2015/02/01 05:56  【共同通信】



☆中村大尉事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%A4%A7%E5%B0%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

中村大尉事件(なかむらたいいじけん)又は中村大尉殺害事件とは1931年(昭和6年)6月27日、新潟県蒲原郡出身の陸軍参謀中村震太郎(1897年~1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件のこと。

(略)

8月17日に記事解禁され事件の全貌が発表されると、合法の護照(と日本側は主張したが、先述のように合法性には疑問がある)を提示したにもかかわらず拘束され、裁判もなしに殺害され、遺体は焼かれて埋められ、金品を奪われたと言う報道に、当時の日本国内世論は沸き、幣原外相の協調外交を軟弱外交と非難する声がいっそう高まり、9月の満州事変につながっていった。

しかし、満州事変の勃発により、日中双方の主張を相互検証し真実を解明する機会は失われた。



☆満州事変~中村大尉事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89#.E4.B8.AD.E6.9D.91.E5.A4.A7.E5.B0.89.E4.BA.8B.E4.BB.B6

その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

(略)

この二つの偶発的ともいえる事件により、さらに日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し、日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会をうかがうようになった。

中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛を取り調べ始めたと日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。



《在外邦人殺害→世論が沸騰→日本軍海外派兵(昭和7年)》

☆上海日本人僧侶襲撃事件~事件の真相

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E7.9C.9F.E7.9B.B8

上海事変以降、日華両国の紛争は限りなく続く事になっていった。

この上海事変の引き金となった日本人僧侶襲撃事件であるが、関東軍による策謀であるとの説がある。これは当時、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)が東京裁判(極東国際軍事裁判)において、自ら計画した謀略であったと証言しているためである。

田中によると、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者であった板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐から「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と工作資金2万円で依頼され、抗日運動の根拠地であった三友實業公司を買収し謀略を準備していた。

この謀略の実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子であったという。なお川島は田中の愛人であった。田中から1万円の工作資金を渡された川島は、命令どおり中国人を雇い日本人僧侶を襲撃させたとされているが、下手人の中国人は何者であったかは明らかになっていない。


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▼ プロパガンダ戦~「偽装・草の根運動団体」を活用して世論誘導をおこなう手法 ▼


☆アストロターフィング

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

アストロターフィングとは、団体・組織が背後に隠れ、自発的な草の根運動に見せかけて行う意見主張・説得・アドボカシーの手法である。人工芝運動や人工草の根運動、偽草の根運動などとも和訳される。

(略)

アストロターフィングの手法としては、一般市民を装って多量の意見書簡を送りつける方法が古典的なものである。用語の考案者であるベンツェンは、自身が経験した特定企業が背後にあると思われるこの種の書簡による働きかけを表現するために、本物の草の根運動の芝生と「アストロターフ」の比喩を用いた。電話や電子メールを使っても同様の行為が行われている。

また、第三者の名義を用い、公平な立場を装って評論をマスメディアに寄稿することで宣伝を図る行為も、アストロターフィングにあたる。この場合の第三者は、実際には宣伝をしようとする者の関連団体などであるが、関係を隠して中立的な立場を装っている。



☆ヒル・アンド・ノウルトン~湾岸戦争での戦争プロパガンダ事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3#.E6.B9.BE.E5.B2.B8.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A7.E3.81.AE.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.83.97.E3.83.AD.E3.83.91.E3.82.AC.E3.83.B3.E3.83.80.E4.BA.8B.E4.BB.B6

メディアと民主主義センター (Center for Media and Democracy)によれば、1990年H&K社は、米国内で「アメリカ世論操作を狙った、外国資本によるかつてない最大のキャンペーン」を行い、他の20以上の米国の広報会社を率いた。

H&K社は、クウェート政府がほぼ全面的に資金提供した偽装草の根市民運動 (Astroturf) 団体自由クウェートのための市民運動(Citizens for a Free Kuwait) が払う1,080万ドルで受注した。

1990年10月10日のアメリカ下院の下院人権議員集会 (Congressional Human Rights Caucus)で行われたナイラ看護師の証言が問題になった。「命からがらクウェートから逃げてきた」と言うナイラは、H&K社の副社長ローリー・フィッツペガドから直接演技指導を受け、ボランティアをしていたクウェート市のアル=アダン病院に、イラク兵が乗り込み保育器から取り出された多くの幼児が虐殺されたという嘘の証言を涙ながらに行った。このエピソードはサダム・フセインを非難するときに毎回のように引用され、ブッシュ大統領も「赤ん坊殺し」と言う表現を好んで使用するほど影響を与えた。湾岸戦争終結後、世界中のマスメディアがこの証言の真偽を確認するため取材したが、虐殺の証言が集まらない上に、100以上もあるはずの保育器そのものがクウェート全土に数えるほどしかなかった。現実には、ナイラは当時のクウェート駐米大使サウド・ナシール・アル・サバ(Saud bin Nasir Al-Sabah) の娘だった。

その後クウェート政府が危機管理会社クロール社 (Kroll Inc.)に委託した調査で、保育器が略奪され幼児が死亡したのは少なくとも7人と結論づけたが、何人が死んだか記録もないし現場のコンセンサスもないとした。調査によるインタビューで、ナイラは、議会での証言はH&K社が手伝って用意したものだと述べ、事件で赤ん坊が保育器の外にいるのを「ほんの一瞬」見ただけだったことを証言した。またナイラは、その病院でボランティアをしたことがなく、かつて数分間居たことがあるだけだったことも証言した。ワシントン・マンスリー(Washington Monthly) でTed Rowseは、被害者が159人と言う数字も、議会証言でH&K社から事前配布された資料には書かれていて、ナイラの口頭証言で数字が一切出てこなかったことから、H&K社が作ったものだと断定している。



☆ナイラ証言

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%A9%E8%A8%BC%E8%A8%80

ナイラ証言(ナイラしょうげん、Nayirah testimony)とは、「ナイラ」なる女性(当時15歳)が1990年10月10日に非政府組織トム・ラントス人権委員会にて行った証言。イラクによるクウェート侵攻後、イラク軍兵士がクウェートの病院から、保育器に入った新生児を取り出し放置、死に至らしめた経緯を涙ながらに語った事で知られる。当時のマスコミはクウェートへ入れなかったため、この証言が信憑性のあるものとされ、広く喧伝された。アメリカ合衆国上院議員や大統領も幾度となく引用しており、湾岸戦争の布石を敷くこととなる。

当初はアムネスティ・インターナショナルや避難民からの証言により、裏付けの取れたものであった。しかし、クウェート解放以後、マスコミが同国内に入り取材が許された結果、新生児の件は虚偽であった事が発覚。また、1992年に「ナイラ」なる女性は苗字がアル=サバーであり、何と当時クウェート駐米大使であったサウード・ナシール・アル=サバーの娘との事実が暴露された。その上、証言自体がクウェート政府の意を受けた、ヒル・アンド・ノウルトンによる自由クウェートのための市民運動広報キャンペーンの一環であったのも明らかとなる。爾来、単なる戦時プロパガンダとして広く認知された。

(略)

自由クウェートのための市民運動は、クウェート大使館が設立、タイムズニュース社が執筆を行う、ワシントンD.C.に本部を置く、草の根市民運動を偽装して宣伝活動を行う(アストロターフィング)広報委員会であった。同委員会は大使館舎の一角を占めたものの、大使館からは独立して業務を行った。

ヒル・アンド・ノウルトンは1990年、ニューヨークでクウェートからの亡命者と接触した後、自由クウェートのための市民運動に参画。国家的キャンペーンの目的は、イラクの独裁者たるサダム・フセインによるクウェート侵攻について、アメリカ国内で世論を喚起することにあった。100万ドルを費やし、強硬な手段に向けた支持を勝ち取る最善策を決める研究に着手。研究によると、暴虐とりわけ保育器の話が最も影響がある事が分かった。なお、広報キャンペーンには、クウェートから1200万ドルの資金提供を受けたとされる。