http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150105-00000004-jij-soci
https://web.archive.org/web/20150104204301/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150105-00000004-jij-soci
1949年8月に福島県金谷川村(現福島市松川町)で起きた国鉄東北線の列車脱線転覆事件「松川事件」について、公安調査庁の前身である法務府特別審査局が連合国軍総司令部(GHQ)に概要を文書で報告していたことが4日、分かった。
(略)
国鉄職員の大量解雇などに反発した労組員と共産党員が引き起こしたとの筋書きで立件された松川事件に対し、民主化から反共産主義の防壁国家づくりに対日政策を転換させていた米国が重大な関心を寄せていたことを裏付ける資料となる。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
☆松川事件60周年記念全国集会
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/55816a91fd5041b6e10bc3a55c46cd89
福島大学OBで、松川資料室研究員の伊部正之・名誉教授は、現役時代から10万点にも上る資料を収集・管理してきた研究者として松川事件の真相について報告しました。
「松川が事故か事件かということで言えば、事件でないと困る者たちがいた。鉄道は軍事施設であり、その破壊は柳条湖事件(戦前、満州で起きた日本軍による満鉄線爆破事件)を見ても明らかなように、政治的利用価値が高かった(ついでに言えば、これに先立つ1928年に起きた日本軍による張作霖爆殺事件も鉄道爆破である)。1947年、静岡県で三島事件という列車転覆未遂事件が起きたが、この時、犬釘が抜かれたものの直線だということもあり列車は転覆しなかった。その後の予讃線でも列車転覆が謀られ、カーブだったこともあり列車は転覆、『これで行こう』ということでその後の松川事件につながっていった。(列車転覆を)仕掛ける者たちも経験を積んだのである。その後、犬釘を抜くだけでは脱線しない場合があることもわかり、次第に線路をずらして確実に転覆するよう仕組まれていった。線路をずらすとなれば、バールや自在スパナでは無理であり、大型ハンマー等の工具が登場した。これらの工具が必要となったことにより、松川事件の検挙容疑となった『4~5人単位』での犯行は事実上不可能だった」
(略)
その上で、伊部名誉教授は、これまでの研究成果を基に、松川事件の「真犯人」を次のように推定しました。
「下山事件と松川事件の実行犯は共通の人物。三鷹事件との関連は今後研究する必要がある。実行犯は少なくとも9人いて、中国からの引揚者。なぜなら旧日本軍が中国大陸で行っていた(謀略事件の)手口とまったく同じだからである。それら引揚者を米国が束ね、管理も米国が行った。事件現場へ実行犯を案内し、地元の一般人が事件現場を通行しないよう監視を行う役目を果たしたのは日本警察である」
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
《松川事件の直後、増田官房長官は証拠もないのに「労働組合関係者の関与」を強く示唆。これは当時の世論が反・労働運動に傾く一因となったものと思われる》
☆松川事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E6.8D.9C.E6.9F.BB.E3.81.AE.E7.B5.8C.E9.81.8E
下山事件、三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官の増田甲子七が、三鷹事件等と「思想底流において同じものである」との談話を発表、世論もそのような見方に傾き、捜査当局は当初からそれらの事件との関連を念頭に置いていたことが伺える。
捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、東芝松川工場(現北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行との見込みを付けて捜査を行った。
事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名及び東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕、起訴された。
《国会議事録より》
第063回国会 法務委員会 第29号
昭和四十五年八月十二日(水曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/063/0080/06308120080029c.html
○青柳委員
(略)
松川事件は、御承知のとおり、もう発生したその当初から、時の政府当局では、増田官房長官が、思想的な背景のある事件であるというふうな、何らの合理的な根拠に基づかずした発言が行なわれ、そして捜査当局がその線を重視して見込み捜査を始めていった。そうして容疑者と思われる者を別件で逮捕して、そして強制あるいは拷問、そういう方法によって虚偽の自白をしいていった。そういう中でいわゆるでっち上げが行なわれたわけでございます。これに関係した捜査関係員というものは、司法警察職員はもちろんのこと、検察職員もそしてまた裁判官も関係しているわけであります。ですから、その数は非常に多いわけでありますが、そういう人たちの責任というものは個人的にも全然国として追及しない。すなわち、上級下級の関係にある法務省のほうでその部下であるところの者、あるいは警察庁でその部下であるところの当事者を取り調べるとかいうような、いわゆる綱紀問題としてあるいは懲罰問題として取り調べるということもやられているように見受けないのであります。もちろん、これにつきましては松川の弁護団が、またこの法務委員会でも政府側に対して質問をいたし、追及をいたしました。これは記録にも残っていることでございますけれども、当時は刑事局長であった竹内現最高検検事総長、またその前に法務省の事務次官にもなられたわけでありますが、何べんにもわたって、もし不正があるならば適当な措置はとる、そのための調査も厳重に行なうというようなことを言明しておられるわけでありますが、一体こういうことについていままでどういうことがやられてきたのか、さらに今後この問題についてどういう措置をおとりになる方針でおられるのか、それをまず最初に承りたいと思います。
○青柳委員
(略)
現にこれは余談でありますけれども、今度アサヒ芸能という週刊誌が、私が松川事件の真犯人だというのを出しましたところが、新聞記者が取材に参りまして、そこにおられる辻刑事局長にもいろいろ談話を求めたようでございますが、辻さんは松川事件の真犯人というのはやはり被告だと思っている、確信を持っているということをこの東京新聞には書いてあるわけであります。こう書いてある。「しかし松川事件に関しては、法務省は起訴後の立証段階で手落ちがあったとはいえ、元被告たちが犯人であるとの確信をいまも変えていない。」という趣旨を述べられ、私が松川事件の真犯人だと言っている中島辰次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E8%BE%B0%E6%AC%A1%E9%83%8E
という人が言っていることは問題にならぬ、こういうお話でありますが、こういう態度ですと、しかも辻さんは松川事件では主任検事の一人として三、四名の被告の自白を調書におとりになった方であります。したがって、依然として法務省がこの問題については求償権のことについても考えない。国とすれば、当然国を代表する立場で法務大臣があるわけですから、当然のことながらこの問題は研究しておられるはずだと思うのであります。この点はいかがですか。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
《松川事件の直後、読売新聞は証拠もないのに「共産党関係者の関与」を強く示唆。これは当時の世論が反共に傾く一因となったものと思われる》
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/sato.htm
ここにその一例として、「外部団体が応援」と題する、十九日付読売新聞を引用しよう。
「東芝松川労組は事件発生当日の十七日朝八時から二十四時間ストに入ったが、その前夜同労組はスト準備会合を天王原工場で外部団体員三百名が出席して行われ、散会後幹部数名は引続いてフラク会議を開き、これに出席した争議のリーダー格の共産党員三名が同夜十時過ぎ帰路についたまま行方不明になっている事実があり、これも一応の疑惑をもち目下三名の所在を調査している」
これはまた驚いた記事である。「外部団体員三百名」といっても、組合大会全出席者が二百名を少し超えた程度なのだから、甚だしい誤りである。だがその誤りを、「引続いてフラク会議」、「出席した……共産党員三名が……行方不明」とつづけてみると、単なる誤りではなく、ある底意をもった、意図的なものと考えざるをえない。しかも、八坂寮組合室の集まりはフラク会議などというものではなかったし、十時過ぎに帰った三名といえば、杉浦に太田(副組合長)と佐藤代治にちがいなく、三名とも十七日は早ばやと工場にでてきて、ストライキで予定した行動にはいっていた。もちろん、この三名以外にも行方不明などというのは一人もいない。
この記事を読むと、私は執行委員の斎藤正と一緒に、読売新聞福島支局に抗議にでかけた。ところが、この支局員たちの論理がすさまじい。記事内容は確認していないし、また確認とか調査をするとかということは、まったく必要ないのだ。もちろん、はっきりしたニュース・ソースはあるが、それをあかすことはわれわれの義務としてできない、というのである。しかも、暴力団まがいの態度で、高飛車である。これには、記事を読んだとき以上に驚かされたものである。
しかし、一時間ほども押し問答をしているうちに、彼らも次第に詰まってきた。そこで彼らはつぎのような論理を展開してきた。工場をでて、人家の多い町場まで出るには、畠や田圃のなかの一本道を歩かなければならない。ところが、この道のまわりには人家がないのだから、三人を見ているものは誰もいないはずだ。したがって、この間、たとえそれが十分だろうが、二十分になろうが、ともかく行方不明とおなじことになる、というのである。これもまた呆れた話だったが、しかし、これ以上は時間の無駄と考え、記事の訂正を約束させて帰ってきたものであった。
しかし、二十一日付読売新聞をみると、つぎのようになっていた。訂正どころか、さらに悪質な内容なのである。
「列車転覆事件の前夜二十四時間ストを決議した東芝松川工場の労組大会終了後開かれたという少数フラクの〝天王原会議″と、事件発生当時所在不明を伝えられた三名が捜査線上に大きく浮び上っている。東芝労組連合会佐藤一、松川労組執行委員斎藤正両氏は、『当夜の大会参加者は外部団体を加えて二百三十名だが、会議終了後開かれたといわれるフラク会議は組合執行部としては全然関知しない。組合会議が事件と関係のあるような想像は迷惑千万だ。もちろん会議終了後所在不明といわれるものについても全く知らない』と抗議しているが、捜査当局では、同会議に潜入したらしい組合員外の過激分子と会議後数時間所在不明となった三名との関係に疑惑を深め慎重な内偵を行っている」
行方不明も、フラク会議などというものも、ともに“存在しない”という抗議を、“関知しない”とすりかえ、ますますいわくありげな筆使いは、下山、三鷹、松川事件と、政府筋の意図を先取りするように、デマ報道に狂奔した読売新聞の体質のようなものが感じられる。彼らは、デマ報道だけでは足りなくて、後には一女性を誘拐し、飯坂の旅館に閉じこめて、虚偽の「自白」さえ強要した。それを取材とうそぶく、卑劣な記者がいたのである。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
《松川事件や下山事件と「電力利権」は密接にリンクしている可能性がある》
☆謀殺・下山事件④
(熊井啓への旅)
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma51.html
昭和二十四(一九四九)年七月五日の事件当日、下山(しもやま)定則(さだのり)(初代国鉄総裁)は、奇妙な行動を取っている。
朝、定刻に運転手が車で迎えに来て東京大田区の自宅を出発するが、独り言のように「佐藤さんの所に寄るのだった」と言う。運転手がそっちの方向に回るか尋ねると、「いや、いい」と応え、東京駅のロータリーまで来ると、国鉄本庁を目の前にして「買い物がしたいから三越に行ってくれ」と命じ、「今日は十時までに役所に行けばいいのだから」とつぶやく。
この「佐藤さん」とは、衆議院議員(注:当時は民主自由党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
の政調会長であった)の佐藤栄作(のちの首相)のことである。下山は旧鉄道省時代から佐藤とは顔見知りだった。
(注:下山が東京鉄道局長に就任したころの運輸次官が佐藤だった)
☆「下山事件」を歩く (下)
(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/shimoyama2.htm
三越本店から下山総裁を乗せて走り去った車は、意外な所で目撃されています。
矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」では「その日撃者ほ(原文ママ)大津正氏といって、後で総理大臣になった佐藤栄作氏の秘書だった。
佐藤氏と下山総裁はともに国鉄官僚で師弟の間柄だったが、この二人のとりもちを日ごろからしていたのが大津氏だった。
その大津氏が事件の七月五日昼前、国会議事堂横ですれちがった車のなかに下山総裁をみたというのである。
この大津氏の目撃は事件の翌日の七月六日の読売新聞紙上につぎのように報じられていた。五日午前十一時ころ、所用で平河町の民主自由党本部から日比谷へ車を走らせている途中、逆に都電議事堂前停留所のほうから平河町へ向かって走る自動車とすれちがったが、この事のなかに、二、三人の男に前後左右を囲まれた下山さんらしい人をみた。ふだん下山さんの乗る車でないに総裁が乗っているのが不思議だと思った。」とあります。
他の下山総裁を知らない人の目撃談とは違い、よく知っている人の目撃談は真実味があります。
特に下山総裁の乗っていた車が、ビュイック41年型ではなかったのを目敏く見つけています。このあと自動車に乗った下山総裁の目撃証言は途絶えます。
☆『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』読了(5/6)
http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/69f994239f7044d13e4ac97c42c3292b
「・・・佐藤(栄作)に頼まれて、下山事件の下手人を逃がすために弘済会を利用させたんだ」(p.347)。
☆下山事件:白洲次郎との3日前の謎の宴席(西銀座・出井、いづゐ)
(つぶやき館)
http://madonna-elegance.at.webry.info/201210/article_27.html
東北電力が下山事件を考える際、最終のキーポイントになるわけである。
下山事件の一ヶ月前、6月3日にGHQから国内電源開発への巨額資金投入が示されていた。
この巨額資金で東北本線電化を行なえば国鉄に莫大な見返り利権が生じることになる、わけであった。
ここで下山総裁は東北本線総電化には反対で国鉄内合理化を第一の手段と考えていた。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(上)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3449
ここで柴田は、自著の「下山事件
最期の証言」に記したように、東北本線の電化計画説を紹介する。当時の国鉄には、組合員を中心とする大量解雇の見返りとして、GHQから東北本線の電化に関する融資計画が持ちかけられていたというのだ。
(東北本線の電化!)
即ち、これは東北地区の電源開発とセットで、本線の電化を進めるというものである。
どんな鉄道経営者でも、大型の電化計画の融資の話は願ってもないことであったろう。ところが下山総裁は、この電化計画に反対の立場をとっていたという。
(ははぁ、下山は『鉄』だからなぁ)
ここでは反対の理由を挙げていないが、柴田は、GHQにとり、下山は国労を叩く障害となったからではなく、電化計画の障害となったから消されたとする説を取っている。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(中)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3450
「私が下山事件に興味を持ったのは平成三年七月、旧満州特務機関の残党の『亜細亜産業』という貿易会社が事件に関与していたという情報を得たことが発端だった。この会社は別名『Y機関』と呼ばれ、三越に近い室町三丁目のライカビルに事務所があった。
(略)
当時は、佐藤栄作も児玉誉士夫も「亜細亜産業」にしょっちゅう出入りしていた。今なら考えられない。この「亜細亜産業」とは、裏を返せば敗戦前の「Y機関」そのものであり、その「Y」とは、上海でその特務機関を立ち上げた矢板玄その人のことだ。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(下)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3451
白洲の東北電力会長就任に疑念を拭えなかったこちらにも、下山事件の裏に東北電力の電源開発があったと知って、なるほどと膝を打った。8月には三鷹で三鷹事件、そして福島では松川事件が発生しているが、特に松川事件は、同じように関東軍特務機関員であった中島辰次郎が、後にGHQの工作員として関わったと証言したことがある。
(略)
下山の説得にあたったか、脅迫したかハッキリしないが、只見川の電源開発計画の推進のために白洲次郎が何らかの功績があったと認められれば、東北電力の会長職は見返りに与えられても不思議はない。
☆佐藤栄作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
1924年5月、鉄道省に入省。
以後、鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。
1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある。
長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。
1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した。
☆大津正
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%AD%A3
大津 正(おおつ ただし、1909年 -1997年1月29日 )は政治家秘書。岸信介、佐藤栄作に仕えた。
1909年 - 山口県熊毛郡田布施町に生まれる
中央大学卒業
岸信介の秘書となる
1948年 - 佐藤栄作官房長官秘書官に就任
1964年11月 - 佐藤内閣成立に伴い、内閣総理大臣政務秘書官(首席秘書官)に就任
1967年 - 首席秘書官を楠田実に譲る
1971年 - 再び首席秘書官に就任
1972年 - 佐藤の首相辞任に伴い、首席秘書官退任
1991年 - 大利根カントリークラブ社長に就任、以後、死亡時まで務める