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2015年1月21日水曜日

【歴史メモ】中村震太郎大尉殺害→世論が沸騰→満州事変(日本の世論を味方に付けてから関東軍は武力行使)

☆中村大尉事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%A4%A7%E5%B0%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

中村大尉事件(なかむらたいいじけん)又は中村大尉殺害事件とは1931年(昭和6年)6月27日、新潟県蒲原郡出身の陸軍参謀中村震太郎(1897年~1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件のこと。

(略)

8月17日に記事解禁され事件の全貌が発表されると、合法の護照(と日本側は主張したが、先述のように合法性には疑問がある)を提示したにもかかわらず拘束され、裁判もなしに殺害され、遺体は焼かれて埋められ、金品を奪われたと言う報道に、当時の日本国内世論は沸き、幣原外相の協調外交を軟弱外交と非難する声がいっそう高まり、9月の満州事変につながっていった。

しかし、満州事変の勃発により、日中双方の主張を相互検証し真実を解明する機会は失われた。



☆満州事変~中村大尉事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89#.E4.B8.AD.E6.9D.91.E5.A4.A7.E5.B0.89.E4.BA.8B.E4.BB.B6

その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

(略)

この二つの偶発的ともいえる事件により、さらに日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し、日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会をうかがうようになった。

中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛を取り調べ始めたと日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。