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2014年10月22日水曜日

【宗教面から考える靖国問題】仏教思想から見た靖国神社の限界

☆怨親平等の教え (仏教紙「中外日報」)

http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/futaku/141022.html

https://web.archive.org/web/20141022112856/http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/futaku/141022.html

日中、日韓の関係が懸念される今だからこそ「怨親平等」の精神で、全ての霊を追悼し、世界恒久平和を祈念する施設にする道は検討できないのだろうか。神社側の柔軟な対応が望まれる。

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★ 戦国時代、時衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%AE%97
の僧侶はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。
この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%9C%8B%E8%A1%86#.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.81.AB.E7.8F.BE.E3.82.8C.E3.82.8B.E5.90.8C.E6.9C.8B.E8.A1.86
1333年(元弘3年)に鎌倉幕府軍の斎藤新兵衛入道らが千早城を攻めた際には、200人もの時衆がこれに従っていたと「正慶乱離誌」に記述がある。また1338年(延元3年)に新田義貞が越前国藤島で戦死した時には、時衆の僧侶8人が現れ、義貞の遺骸を輿に載せて往生院(長崎往生院称念寺)へ運んだと西源寺本「太平記」にある。




《時宗総本山・遊行寺ホームページより》

http://www.jishu.or.jp/?page_id=537

敵御方供養塔(怨親平等の碑)

境内東門を入ってすぐ左にあります。「南無阿弥陀仏」の碑は、室町時代の応永23年(1416)に、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対して反乱を起こした時、幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れ去りました(禅秀の乱)。

この乱によって両方に死傷者が多く出たので、遊行十四代太空上人は、一山の僧と近在の人々と共に敵味方両軍の傷ついた人たちを収容して治療を行うとともに、戦没者を葬り敵味方の区別なく平等に供養し、供養塔を建立してその霊を弔いました。

このような、いわゆる博愛思想をあらわす塔や碑は他にもありますが、この碑はその中でも最も古く、大正15年に国の史跡に指定されています。




《仏教は神道の「パワーアップキット」としての役割も果たしていた》

☆神宮寺

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%AF%BA

神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。




☆神仏習合

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88#.E7.A5.9E.E5.AE.AE.E5.AF.BA.E3.81.AE.E5.BB.BA.E7.AB.8B

このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。

(略)

数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。



☆本地垂迹

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9#.E6.A6.82.E8.A6.81

しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。

仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。

一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。

このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。