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2014年7月16日水曜日

【集団的自衛権/平和ボケ】海外派兵した自衛隊が撤兵時に追撃されることは想定されていない

☆「戦闘現場」に自衛隊 安倍首相「可能性ある」 衆院予算委・笠井氏批判 殺し殺される危険 (赤旗)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-07-15/2014071501_01_1.html

首相は「戦闘が行われれば、中止・中断して引き揚げる」と答弁。笠井氏は「攻撃を受ければ応戦となり、簡単に引き揚げられるかどうかも問題だ」と強調しました。

小野寺五典防衛相は「(戦闘発生で)任務ができなくなれば、状況にあわせて対応を取る。(笠井氏の指摘する)さまざまな想定は考えすぎではないか」などと問題を矮小(わいしょう)化しました。




《戦争は前進する時より後退する時のほうが難しい》

☆一乗谷城の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.B0.8F.E8.B0.B7.E5.9F.8E.E5.8C.85.E5.9B.B2

12日、近江一帯を暴風雨が襲った。信長はこの暴風雨により敵が油断しているはずと判断し、これを好機と捉えたと考えられる。

信長は本陣より自ら1000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦を奇襲した。この砦は山田山から南に下がった位置にあり、小谷城を含む連山の小谷城よりも高所に位置し、朝倉軍の対織田軍に対する前線基地だった。

朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかったために降伏してきた。これを討ち取ることもできたが、ここで信長は一計を案じ、捕えた敵兵をわざと解放し義景の陣へ向かわせた。義景は大獄砦が落ちた事を知れば必ずや撤退すると読み、そこを追撃しようというのである。

信長は次に朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)を襲って手中に収め、そこでも敵兵を解放した。

この2城に兵を配置した後、信長は「朝倉は必ず撤退する」と言い放ち、先手に佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀などを配置。好機を逃すことのないようにと何度も下知した。

13日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低い。勝ち目が無いことを悟った義景は撤退を決断した。

朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を徹底的に追撃した。

(略)

織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。




☆関ヶ原の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E8.A5.BF.E8.BB.8D.E6.95.97.E8.B5.B0

こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始される。

島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始する。西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功。更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破する。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなってしまう。島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたという。

しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始した。松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みる。

決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。この際島津方では島津豊久、阿多盛淳が捨て奸となり玉砕した。

次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退、負傷した。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避けた。

一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも、殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は辛くも撤退に成功した。

盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。

島津家は戦功があった5人に小返しの五本鑓の顕彰を与えている。




☆捨て奸

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B8

捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。

本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、死ぬまで追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。

足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。

関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。

それは退路に点々と数人ずつ銃を持った兵達を、敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。

徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。

高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは僅かに80余名であった。