※ 「夷(い)を以て夷を制す」
出典は「後漢書」。
異民族を利用して異民族をおさえる。敵国をおさえるのに、他国の力を利用する。以夷制夷(いいせいい)。
☆1人平均2300万円 ベンツも売れる原発避難者補償金の現実
(産経新聞~花田紀凱の週刊誌ウォッチング)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140726/bks14072612050001-n1.htm
https://web.archive.org/web/20140727220904/http://sankei.jp.msn.com/life/news/140726/bks14072612050001-n1.htm
先週に続いて、今週も『週刊新潮』(7月31日号)が、新聞には絶対書けないことをズバリ。
「『石原環境相』の暴言を嗤(わら)えない! 『原発避難民』の心を荒廃させた『補償金』ジャブジャブの日常」
(略)
いずれ、補償金のツケは電気料金に転嫁され国民全体に回ってくる。考えるべき重大な問題だ。
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《「週刊新潮」が危機的状況にあった自民党政権を救った前例》
☆西山事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『週刊新潮』によって不倫関係がスクープされ、当時の東京地検特捜部の検事佐藤道夫が書いた起訴状に2人の男女関係を暴露する「ひそかに情を通じ、これを利用して」という言葉が記載されて、状況が一変したといわれる。
起訴状が提出された日、毎日新聞は夕刊に「本社見解とおわび」を掲載、その中で「両者の関係をもって、知る権利の基本であるニュース取材に制限を加えたり新聞の自由を束縛するような意図があるとすればこれは問題のすりかえと考えざるを得ません。われわれは西山記者の私行についておわびするとともに、同時に、問題の本質を見失うことなく主張すべきは主張する態度にかわりのないことを重ねて申述べます」としたが、実際は以後この問題の追及を一切やめた。
その後は『週刊新潮』が「“機密漏洩事件…美しい日本の美しくない日本人”」という新聞批判の大キャンペーンを張った他、
女性誌、テレビのワイドショーなどが、西山と女性事務官が双方とも既婚者でありながら、西山は肉体関係を武器に情報を得ていたとして連日批判を展開し、世論は一転して西山と女性事務官を非難する論調一色になった。裁判においても、審理は男女関係の問題、機密資料の入手方法の問題に終始した。
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《原発事故の被災者を団結させずに「分断統治」する謀略》
☆避難勧奨地点「地区全体指定を」 伊達住民怒り収まらず
(河北新報。2011年10月17日)
https://web.archive.org/web/20111019203207/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111017t65003.htm
http://www.asyura2.com/11/genpatu17/msg/570.html
「地域の一体感が引き裂かれる」と地元が反発する事態が続いている。
「地域のみんなで子どもを守ってきたのに、自分だけ支援を受けて申し訳ない」。伊達市霊山町小国地区の40代女性が話す。
(略)
東電は指定世帯に対し、精神的苦痛に対する賠償として、避難した日から9月10日までは原則1人当たり月額10万円、それ以降の6カ月間は5万円を支払う。指定されない世帯に対する金銭の支払いは全くない。
地形や緑地などの条件によって放射線量は一軒一軒異なるとはいえ、住民は隣り合う家の「精神的損害」がこれほどまでに違うのかと、疑問視する。
(略)
同市霊山町下小国の主婦秋葉知子さん(39)は「指定されない世帯は、除染も後回し。地域に残って生活している人の負担も軽くはない」と話す。
小国小PTA会長の高橋裕一さん(42)も「支援に差をつけることは、地域社会のまとまりを損ねる」と危機感を抱いている。
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《古人いわく「夷を以て夷を制す」》
☆仮道伐虢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%81%93%E4%BC%90%E8%99%A2
攻略対象を買収等により分断して各個撃破する作戦、特に、いったん同盟して利用したものも後には攻め滅ぼすことを指す。晋に滅ぼされた虞(ぐ)と虢(かく)の故事による言葉である。
虞(ぐ)と虢(かく)という小国は、晋に隣接していた。晋の献公は虞公に国宝を送って買収し、虢を攻めるために晋軍が虞を通過することを許可するように求めた。虞の宮之奇は、「虢は虞の支えであり、虢が滅べば虞もやがて攻められる」と虞公に諌言したが無駄であった。果たして虢が滅んで数年後、虞もまた晋に攻め滅ぼされてしまった。
☆借刀殺人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%9F%E5%88%80%E6%AE%BA%E4%BA%BA
借刀殺人(しゃくとうさつじん)は兵法三十六計の第三計。「刀を借りて人を殺す」である。
同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける戦術。敵を討っても自軍の損害は出さないことも目指している。例えば、敵のうちの一国と密かに講和して、交換条件に今までその国が同盟していた他の敵国を背後から奇襲させるというような計も借刀殺人にあたる。
☆混水摸魚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E6%B0%B4%E6%91%B8%E9%AD%9A
混水摸魚(こんすいぼぎょ)は三十六計の第二十計。「水を混ぜて魚を摸(と)る」
水をかき混ぜて魚が混乱しているときに、その魚を狙って捕まえるという意味。
敵の内部を混乱させて(混水)、弱体化したり、作戦行動を誤らせたり、我の望む行動を取らせるよう仕向ける戦術。趁火打劫を主に敵の外患に乗じて攻めることを主眼にすると解すれば、混水摸魚は敵の内患を作出してそれに乗じるものとも言える。
☆ルイ11世 (フランス王)
http://goo.gl/LBcVl
ルイ11世はシャルル7世の中央集権化政策を引き継ぎ、百年戦争後の荒廃したフランスを統一させるに最も成功した王である。その領土併合にあたって、戦争よりも主に外交・政治的な陰謀を用いて国内平和を保ったことは注目に値する。ユーグ・カペー以来のフランス君主の《分割して統治せよ》という伝統政策に結びつけられた王とも言える。
☆イギリス領インド帝国
http://goo.gl/rSL9nY
また、ミントーは、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々を後押しする形で、1906年、全インド・ムスリム連盟が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。
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《パリ・コミューンを潰すためにベルサイユ政府が行った「流言作戦」》
http://chikyuza.net/xoops/modules/news3/article.php?storyid=1067
フローベールは、パリ・コミューンの後、急速に右旋回する。彼がジョルジュ=サンドにあてた手紙などを読むと、ほとんどティエール派の「宣伝」文句に踊らされているように思える。ティエールはコミューンの参加者を「火つけ、盗賊の輩」に仕立て上げ、新聞等で宣伝した。フローベールはこの言葉をそっくり写したような内容の手紙を書いている。
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1717.html
エミール・ゾラ──後年ドレフュス事件において偉大なゾラとなる、そのゾラでさえ、一八七一年六月三日、パリでコミュナールヘの追及と処刑がつづけられていた時、つぎのように書いた。
「パリの人民がいま浴びたばかりの血の風呂は、恐らく彼らの熱病を鎮めるのにどうしても必要だったのだ……」
ゴーチエやマキシム・デュ・カンにとっても同じように、エミール・ゾラにとっても、三月十八日のコミューヌ革命はひとつの政治闘争でもなく社会革命でもなく、じつに「熱病」であり、「気ちがいじみた悪夢」であり、「危険な気ちがいども」の一群がひき起こした暴動にすぎなかったのである。
ヴィクトル・ユゴーを例外として、当時有名だった大作家のひとりとして、ヴェルサイユ政府の宣伝するコミューヌ反対のデマゴギーや心理作戦から逃れることはできなかった。たしかにユゴーも、はじめコミューヌの本質を理解するにはいたらなかったが、ティエールの命ずるコミュナール虐殺に反対する最初の声をあげたのはユゴーであった。
ジョルジュ・サンドは一八四八年の二月革命に際しては社会主義者であり、熱烈な共和主義者であった。しかし、コミューヌについては「もっとも狂暴なやからの支配」と言い、「狂気のどんちゃん騒ぎ」と呼んだのである。
当時まだ若かったアナトール・フランスも──後年フランス社会主義の戦列に加わることになるアナトール・フランスも、コミューヌについてはなんらの理解をも示さなかった。そればかりか、後になって彼じしんが赤面するような見解を抱いていた。若きアナトール・フランスにとって、コミューヌは「犯罪と狂気の政府」であり、「暗殺者たちの委員会」であり、「ならず者の一味」だったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3#.E7.AC.AC.E4.B8.89.E5.85.B1.E5.92.8C.E5.88.B6.E3.81.AE.E6.88.90.E7.AB.8B
パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。
逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワジ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。