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2014年2月18日火曜日

ベネズエラ政府は反政府デモを扇動したとして米国大使館職員3人を国外追放

ベネズエラ政府は、ひそかに反政府デモを扇動したとして、米国大使館職員3人に対し国外追放処分を下した。ベネズエラでは反政府デモが続いており、これまでに反政府派と政権側との衝突で3人が死亡。


☆US: Venezuela's anti-government protests claims 'false'
(英国BBC)

http://www.bbc.co.uk/news/world-latin-america-26235789

Venezuela has seen a string of rallies, with three protesters dying in clashes.



《1953年のイラン・クーデター》

機密解除文書「米国CIAは大規模なプロパガンダで大衆反乱を誘発し、体制転覆にこぎつけた」
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/cia1953-f916.html

AFP通信 
http://www.afpbb.com/article/politics/2608959/4228893



《おまけ》

☆明石元二郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E#.E6.97.A5.E9.9C.B2.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A7.E3.81.AE.E8.AB.9C.E5.A0.B1.E6.B4.BB.E5.8B.95

明石の工作の目的は、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus) 率いるフィンランド革命党などのロシアの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。成果やレーニンとの会見の有無は別として、この点については研究者の間でもほぼ見解は一致している。

このように、明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものであった。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。



☆満州義軍

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E7%BE%A9%E8%BB%8D

満州義軍(まんしゅうぎぐん)は、日露戦争中の1904年、ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満州の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。トップに立ったのは、「花大人(ホアターレン)」として知られた花田仲之助少佐である。彼は、戦争前から、ウラジオストクの西本願寺において僧に化け、「諜報」活動に従事していた。

日露戦争が始まると満州義軍は、同じく馬賊を編成した「遼西特別任務班」と共に大陸の各地で鉄道の破壊や、物資の略奪を行い、ある程度の成果を挙げた。ロシア軍の後方で活動する満州義軍がロシア軍の将兵に与えた心理的ダメージは計り知れない。これらの部隊の総指揮を行ったのは、日本陸軍の情報将校の先駆けで現地満州軍の高級参謀だった福島安正である。



☆花田仲之助

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%94%B0%E4%BB%B2%E4%B9%8B%E5%8A%A9

花田 仲之助(はなだ なかのすけ、万延元年(1860年) - 昭和20年(1945年))は、日本の陸軍参謀本部第2部の情報将校(中佐)。薩摩藩出身。

明治16年(1883年)、陸軍士官学校(旧6期)卒。日露戦争でロシアを混乱させた明石元二郎の同期である。

薩摩人ながらも藩閥を憎むこと甚だしく、陸軍の薩摩閥を一掃した。その事からも分かるように、剛直で謹言な性格であり、見識にも優れた面が多かったらしい。

対ロシアの特殊工作に従事。1897年、僧侶に偽装してウラジオストックに潜伏。布教と称してシベリア、満州、蒙古を偵察。ロシア対策に関して田村怡与造と衝突して退役した。

1901年、国民教化を目的とする団体報徳会を設立。「教育勅語」を基本とし「知恩報徳・感恩報謝」の精神を全国各地に広めた。

1904年、日露戦争が起きると予備役少佐として召集され、対馬警備隊に配属となった。しかし、ロシア軍の馬賊懐柔が進むと此に対抗して馬賊を統括する人物が必要となり、急遽参謀本部に復帰して満州に渡った。玄洋社系大陸浪人14人と大陸浪人に偽装した参謀本部情報将校を中核とし、満州馬賊を纏めて満州義軍を編成した。

最大事の兵力は3000に及んだが、最新銃器を馬賊に支給するロシアに対して、日本軍大本営はスナイドル銃くらいしか支給せず、やむを得ず敵から装備を奪って自軍を増強した。