(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022101003018.html
NHKの籾井勝人会長が1月25日の就任初日に理事らに辞表を預けるよう求め、会長の人事権を強調していたことが21日、複数のNHK関係者への取材で分かった。
《おまけ》
☆恐怖政治
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E6%80%96%E6%94%BF%E6%B2%BB#.E9.96.8B.E5.A7.8B
1793年3月10日、革命裁判所が設置された。これは上訴審のない、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足した。これらは恐怖政治への道を開くものであった。
この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。
当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。
5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。
6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。
翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。