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2013年11月30日土曜日

自民党幹事長が秘密保護法反対者を「テロリスト」と同一視とも解釈できる発言

☆沖縄など (石破茂・自民党幹事長のブログ)

http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-18a0.html

https://web.archive.org/web/20131129200124/http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-18a0.html

今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。

主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。



《おまけ》

☆安保闘争

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89#.E9.97.98.E4.BA.89.E3.81.AE.E6.BF.80.E5.8C.96

岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った。



☆サイレント・マジョリティ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

サイレント・マジョリティ(英: silent majority)とは、「物言わぬ多数派」、「静かな多数派」という意味。対義語はノイジー・マイノリティ(「声高な少数派」の意味)とされる。

積極的な発言行為をしないが大多数である勢力のこと。1969年にアメリカのニクソン大統領が演説に用いてからは「発言はしないが現体制を支持している多数派」というニュアンスで用いられるようになった。

アメリカのニクソン大統領が、1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」とこの言葉を用いた。当時、ベトナム戦争に反対する学生などにより反戦運動がうねりを見せて高まっていた。しかし、ニクソンはそういった運動や発言をしない大多数のアメリカ国民はベトナム戦争に決して反対していないという意味でこの言葉を使った。

事実、兵役を回避しながら反戦運動をする学生などに対して、アメリカ国内では高学歴の富裕層や穏健的な中流層から、保守的な低所得者層の労働者たちまでの広範囲な層が反感を強めていた。実際に1972年アメリカ合衆国大統領選挙ではニクソンは50州中49州を獲得し、圧勝している。

日本においても、昭和35年(1960年)のいわゆる「安保闘争」の際に、当時の首相岸信介が銀座や後楽園球場はいつも通りであることなどを挙げ、安保反対運動に参加していない国民を声なき声という言葉で表現し、ニクソン大統領の「サイレント・マジョリティ」とほぼ同じ意味で用いた。

現在においても、民主主義国家の多くには「サイレント・マジョリティ」と呼ばれるべき人々が存在すると見られ、見えない大勢力への配慮が政治上欠かせないものとなっている。



☆ノイジー・マイノリティ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

ノイジー・マイノリティ(英: noisy minority)とは「声高な少数派」を意味し、サイレント・マジョリティの対義語とされる。

ラウド・マイノリティとも言われる。

「うるさい」・「騒々しい」といった旨が語源であり、主張に理論的ないし道義的裏付けが乏しく「声の大きさ」に任せて騒ぐだけの少数者を指し、批判的な意味合いが強い。

その過激かつ積極的な姿勢のため、実際には少数派であるにもかかわらず、穏健かつ消極的な多数派よりも目立つ傾向がある。実質的にクレーマーと同等の意味合いを持つ。

元来、社会的少数者たるマイノリティは、社会的な偏見や差別や抑圧に対する改善要求を社会的多数者に認知させることにより、ポリティカル・コレクトネスの形で実社会に反映させることがあるが、ノイジー・マイノリティとは、そういった正当な社会運動の対立概念として扱われるものである。