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2013年11月5日火曜日

カリスマ占星術師「山本太郎議員は議会からの追放をギリギリで回避できるだろう」

天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397616303227142144
山本太郎氏の太陽のコードは241→242(ソーラー)。ソーラー241は『退役軍人』というコードで、この文が示す通り「引退や挫折」をもたらす。さらに今の太郎氏の月運コードは、157で『古代トルコのハーレム』というもの。これも挫折のコードであるが、執行猶予として現象化する場合もある。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397617182273585152
つまり、ソーラー157それ自体はコンプレックスコードなので、より上位の位格にあるコードの善し悪しによって、その現象形態が変わって来る。今回の太郎氏の場合、上位コードである出生太陽のコードが241なので、通常であれば「執行猶予」ではなく「挫折」の方で間違いなく現象化することになる。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397618625453899777
ただ、今回のケースの場合、天は山本太郎氏に味方していると言える。実は、今の日本国の年運コードはルナー241なのだが、これは「古い勢力の復活」や「首の皮一枚で命が繋がる」ことを意味するコードである。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397619649983954944
そして前者のセマンティクスは、自民党が前年政権与党になり、今年いよいよその勢いを増長している(調子に乗っている)様子を表している。これは日本の未来を憂える善良な国民にとっては痛い話であるが、しかし、今回の太郎氏の立場からだけ見れば、このコードが今の日本の年運であることは大きな幸運


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397620547158155264
と言えるのだ。というのは、この国家レベルのエネルギーコードは、当然ながらその国に包摂されている一個人に過ぎない太郎氏の年運や月運のコードよりも、上位にある位格である。このルナー241の方に、太郎氏の出生時太陽のコードである挫折プログラムのソーラー241が牽引される(エネライド)


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397621684137508864
ということは、すなわち、太郎氏は「挫折」(=議員辞職)を回避し「首の皮一枚で生き長らえる」という結果になる訳だから。このように今の日本に訪れている運命のコードは、最初に自民党を利した訳だが、今はその力の作用が反転し、今度は自民党のやり方に異を唱える太郎氏に味方しようとしている。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397623792739966976
このように、私たちの世界を形成するエネルギーは、光と闇の「糾える縄の如く」ある訳だが、光の勝利を願う私としては、太郎氏には今回彼の元に訪れようとしている幸運を逃すことなくちゃんと掴み、いま日本を覆っている闇を滅ぼすために次のステージへと自らを繋げていって欲しい、そう願うばかりだ。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/397625603219668993
補遺:しかし、有り得ないことだとは思うが、もし万が一にも太郎氏がこの千載一遇のチャンスを手に出来なかったとしたら…その場合は、とても残念ではあるが、彼の生まれ持ったエネルギーの質量は、単にそこまでのものでしかなかったというだけの話である。



《歴史メモ》

☆壇ノ浦の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

(略)

やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。



☆平将門

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80

2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。

貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。

しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。

将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。



☆泗川の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

心理面においては明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、一度不測の事態によって混乱すると収拾が難しかったと思われること。そして敵軍がわずか7千と圧倒的に劣勢だったため、勝利を楽観視していたのではないかと思われること。これらの要因は、連合軍の弱点となったと言える。

一方島津軍は、この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、多くの味方が逃げ場を失うことを強く認識していたものと思われる。また島津の伝統的な釣り野伏せの戦術で劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、全軍の意思も統一されていたと考えられる。さらに味方の援軍を断って島津家の兵だけで戦ったことにより、少数ながらも軍としてのまとまりが非常にあったものと思われる。

上記の要因が複合し、島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して連合軍が混乱し瓦解したため、寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。