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2013年9月7日土曜日

【史料】放射能による地下水汚染を「根拠なき楽観論」へと誤誘導した朝日新聞の記事

☆放射能汚染水、地下深くには浸透せず 産総研が流れ解析
(2011年4月18日の朝日新聞)

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104180467.html

http://archive.is/BMBck

敷地内に大量にまき散らされた放射性物質が地中に入っても、地下深くには浸透せず、地下水とともに5~10年ほどで海に流れ出るとみられる。

             ↓

657 名前:地震雷火事名無し(庭)
投稿日:2013/09/07(土) 13:28:11.04 ID:jYr0ZfsE0
見事までのデタラメな記事だな。




《机上のシミュレートが大失敗した例》

☆馬謖

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%AC%96

建興6年(228年)春3月に諸葛亮は第一次北伐の際、彼に戦略上の要所である街亭(甘粛省安定県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。

その結果、張郃らに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫する。



☆街亭の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%97%E4%BA%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

事態を危惧した魏帝曹叡は長安に親征し、諸葛亮に対しては祖父代以来の将である張郃を派遣して、諸領の奪回を命じた。これに対し、諸葛亮は参軍の馬謖を抜擢して蜀の進軍の拠点となる街亭の守備に任命し、魏の襲撃に備えさせた。

馬謖は軍を率いて街亭に布陣したが、諸葛亮の指示に背き、行動は妥当性を欠いていた。さらに馬謖は副将王平の再三の諌めを聞かず、水路を捨てて山上に陣を構えた。

街亭に到着した張郃はまず蜀軍の水をくむ道を断ち、水を断たれた蜀軍の士気が下がると攻撃をしかけ、これを大いに打ち破った。蜀軍の大半は潰走したが、王平指揮下の兵1000人だけは、軍鼓を打ち鳴らし整然と踏みとどまったので、張郃は伏兵を警戒して追撃を断念した。