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2013年7月23日火曜日

民主党の大凋落を6年前に予見していた「戸倉多香子」氏の先見の明

戸倉多香子(山口県議)
https://twitter.com/tokuratakako/status/359420216691793921
6年前の参院選で一緒に戦った仲間(少しおこがましいけど)の議員さんたちが、ほとんど落選された。一人区で当選できなかったのは全国で山口県(私)ともうひとつの県くらいだったと記憶。その方々が、今回は民主党を離れ、ばらばらに。当時の民主党代表だった小沢一郎さんは、本当に無念でしょう。


戸倉多香子(山口県議)
https://twitter.com/tokuratakako/status/359427877030199297
6年前の参院選勝利の後におきた小沢党首の秘書逮捕事件(西松、陸山会)。この事件への対応がゼッタイに間違っていたと思います。政権交代後の民主党が国民の期待に応えられなかった原因の根本がそこにあると。当時のブログに、「不公正」「不条理」から党首も守れない民主党では国民を守ることは 


戸倉多香子(山口県議)
https://twitter.com/tokuratakako/status/359428942672826368
できない。
http://ttokura.exblog.jp/9800764/
と書きましたが、読み返してみると「このまま、屈するようなことがあれば、この国はどうなってしまうのか、強いものには逆らっても無駄なのだ、長いものには巻かれろ、という、あきらめの奴隷の国に逆戻りです。」と書いていました。苦笑


戸倉多香子(山口県議)
https://twitter.com/tokuratakako/status/359432978788646914
この引用も興味深い「何故、こういうことになったのか。第一の理由は、民主党の若手の70%ぐらいが自民党という化物政治集団の不条理さと恐ろしさを知らないからである。小泉首相の「一緒にやろう」という言葉に、心の中で同調していることにある。」
http://ttokura.exblog.jp/9800764/



《おまけ》

☆奥州藤原氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。

秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。

しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。



☆奥州合戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6

文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。

後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝えた。

6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。

しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟・忠衡を誅殺している。



☆韓信

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1

紀元前201年、旧知であった楚の将軍・鍾離昧を匿ったことで韓信は劉邦の不快を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離昧に自害を促した。

鍾離昧は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴方の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。

そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。

韓信は「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮られるのか」と范蠡の言葉を引いた。



☆鍾離バツ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E9%9B%A2%E3%83%90%E3%83%84

項羽の死後、鍾離眜は旧友の韓信のもとに身を寄せた。帝位に即いた劉邦は韓信を楚王に封じたが、鍾離眜が楚にいることを知った劉邦は、鍾離眜を逮捕する旨楚に詔を下した。劉邦は楚漢戦争で自分に辛酸を嘗めさせた鍾離眜に、かねてから怨みを抱いていたのである。

さらに、韓信の謀反を讒言する者があった。劉邦は陳平の計に従い、南のかた雲夢に巡狩すると称して陳に諸侯を集め、韓信を襲おうとした。韓信は劉邦に拝謁して二心なきことを自ら弁じようとしたが、逮捕を恐れて劉邦に会わずにいた。

そこで、ある人が韓信に「鍾離眜を斬れば許されるでしょう」と説き、韓信はこの策を採った。これを知った鍾離眜は、「漢が楚を攻撃しないのは、私が貴公に身を寄せているからだ。もし貴公が私を捕えて漢に媚びようとするならば、私は今日にでも死ぬが、貴公もいずれ滅びるであろう」と言い、「貴公は有徳の人ではない」と韓信を罵って自刎した。

韓信は鍾離眜の首級を持って陳で劉邦に拝謁したが、逮捕を免れることはかなわず、淮陰侯に降格された。



☆混水摸魚

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E6%B0%B4%E6%91%B8%E9%AD%9A

混水摸魚(こんすいぼぎょ)は三十六計の第二十計。「水を混ぜて魚を摸(と)る」 水をかき混ぜて魚が混乱しているときに、その魚を狙って捕まえるという意味。

敵の内部を混乱させて(混水)、弱体化したり、作戦行動を誤らせたり、我の望む行動を取らせるよう仕向ける戦術。

(略)

明末、袁崇煥は辺境の軍を整備して、南進する清(後金)をよく撃退して、邵武県知事から兵部尚書兼、右副都御史まで出世した。1630年、清が迂回策をとり薊州を越えて西進すると、袁崇煥は、北京防衛のため広渠門外に陣を置いた。

ここでホンタイジは間者を放って激しく工作し混水摸魚を仕掛けた。

その結果、北京では、袁崇煥が清を先制攻撃せず北京に布陣したのは不自然だと庶民が噂し合い、宮廷では、かつて袁崇煥がヌルハチの死後の直後にホンタイジと使者を交わして講和を打診したことを蒸し返して、「袁崇煥は内通者だ」と讒言して騒ぐ宦官が出るような状況となった。

この頃合を見計らって清は袁崇煥に使臣を送ることまでした。

ついに崇禎帝は疑心暗鬼に耐えられず、袁崇煥を磔刑とした(借刀殺人)。

果たして、辺境防衛の第一人者が除かれたため明の国防は骨抜きとなり、袁崇煥の死後14年で明は滅亡した。



☆明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E

天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、さらに後金軍の侵攻も激しさを増した。

名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い惨殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫った。

1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡した。



☆袁崇煥

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E5%B4%87%E7%85%A5

天啓6年(1626年)1月、ヌルハチの後金軍が攻め寄せてきたがこれを撃退し(寧遠城の戦い)、この功績により兵部侍郎・遼東巡撫・主持関外軍事に任じられた。翌年、寧遠城と錦州城でホンタイジも撃退し、崇禎元年(1628年)には兵部尚書・右副都御史となった。

同時に皮島を本拠地として交易を行なっていた明の下級将校の毛文竜を職務怠慢の理由にこれを誅殺した。

しかし、毛文竜の配下たちが清に投降したため、ホンタイジは長城を遠回りして北京を攻めることに方針を変え、明国内に間諜(スパイ)を送り、宦官を買収し、袁崇煥が謀反をくわだてているという噂を流した。すると猜疑心の強い崇禎帝はいとも簡単にその噂を信じ、北京防衛のために急いで駆けつけた袁崇煥を、崇禎3年(1630年)9月、謀叛の疑いありとして凌遅刑にした。このことは、崇禎帝の代での明滅亡を決定的にした。

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