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2013年1月24日木曜日

〔人質事件〕駐アルジェリア日本大使館も外務省も日頃の「警戒能力」が欠落していた


[タグ]川田司。アルジェリア。志葉玲。シバレイ。


☆人質事件 何も解決していない 今後も日本人は犠牲になる
(日刊ゲンダイ)

http://netallica.yahoo.co.jp/news/20130124-00000002-a_aaac

http://www.peeep.us/f709f636

ところが外務省は、事件のあったアルジェリア・イナメナスを、危険情報では最も低い「十分注意」にしていたというから、アフリカ軽視で危機管理意識がゼロに等しい。



☆報道されない真相 ボンクラ現地の日本大使館は何をやっていたのか 税金ドロボー大使の年収は3000万円!
(2013年1月22日の日刊ゲンダイ)

http://gendai.net/articles/view/syakai/140561

http://www.asyura2.com/12/senkyo142/msg/859.html


「一橋大経済学部を経て、77年に外務省に入省。在イタリア参事官や駐フランス公使などを歴任し、一昨年9月にアルジェリア大使に就きました。2001年に発覚した外務省の裏金プール事件で『厳重訓戒』を受けたほか、国連行政課長時代には国連出向職員に対する給与の二重払いの問題も起きています」(事情通)

(略)

戦場ジャーナリストの志葉玲氏はこう言う。
 「イラクで邦人の人質事件が起きたとき、外務省の大使館職員はアルジャジーラを見て情報収集していたと聞きました。それほど、日本の大使館の情報収集力は乏しい。欧米の大使館は日常的に現地で情報収集しているが、日本はそういう危機意識が低く、コトが起きたときの交渉パイプもない。だから、われわれのようなフリー記者は、大使館をアテにしません」

アルジェリアでは数年前から外国人の誘拐事件が起きていた。川田大使は政府間の緊密なパイプをつくるべきだった。



世に倦む日日
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/292492093513953281
在アルジェリア日本大使の情報を発見。
http://www.dz.emb-japan.go.jp/jp/annai/annai_j.html
川田司という男。無能なキャリアかと思ったら 、とんでもない右翼官僚だった。1996年から従軍慰安婦問題に関わり続け、2007年にEU議会での決議阻止に動いている。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20071213/1197476828


世に倦む日日
https://twitter.com/yoniumuhibi/status/292493329894092800
アルジェリアの日本大使は誰なんだ、何をやっているんだという批判がマスコミから出ないから、不思議に思っていたら、こういうイデオロギッシュな裏事情があった。川田司は、従軍慰安婦問題で反動工作する外務省の右翼工作員だった。だから、安倍晋三が必死に庇って名前をマスコミに出させないわけだ。



《おまけ》

☆黒溝台会戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BA%9D%E5%8F%B0%E4%BC%9A%E6%88%A6

ミシチェンコ支隊の威力偵察行動は兵力が大きく、行動範囲も大きかったため、当然日本側も騎兵で察知していた。偵察を察知した秋山少将は、「敵の前哨活動が活発である。何か大作戦の予兆あり」と満州軍総司令部に対して幾度となく警報を送り続けた。しかし、警報はことごとく黙殺され、無視された。

また、先に述べたロシア軍のシベリア鉄道による補給活動が非常に活発であったため、日英同盟を結んでいたイギリス軍情報部によって列車の運送状況などの細かな情報もふんだんに満州総司令部に届いていたが、その情報も結局無視されてしまった。

黙殺の理由は「この冬季にロシア軍が大作戦を起こすはずがない」といったものである。満州軍総司令部の参謀達は、ロシア軍の習性は敵を撃退し、前進した後に必ず踏みとどまって陣地の構築をするものだと考えていた。そして、この時期の満州は非常に寒く、大地も硬く凍結しており、ツルハシで陣地の構築を行おうにも一日にわずか7cmしか掘れないほどであり、よって陣地の構築をすることが困難なこの季節には、ロシア軍は攻勢を発起するはずがないと考えていたのである。

しかし、ナポレオン・ボナパルトのロシア遠征を見てもわかるように、ロシア軍では冬将軍を気候の利として利用し、寒気を利用できる時期に攻勢を行うことを基本戦術として用いることが多い。だが、そのような定石戦法が考慮されることはなかった。

さまざまな情報がすべて、ロシア軍の大作戦を予兆するものであったにもかかわらず、満州軍総司令部はこれらの情報に目を向けなかった。

このような状況下にロシア軍の大攻勢が実施された。この戦略的な失敗はのちのちまで大きく響き、日本軍の左翼は全線に渡って、攻撃を受け続けることになった。