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2012年12月4日火曜日

衆院選後の日本は「フランコ総統時代のスペイン」のようになるとの見方


732 名前:無党派さん
投稿日:2012/12/04(火) 06:31:35.98 ID:Sea418fn
ねえ、これ色々調べてるけど未来の党が多分負けて、おそらく民主、自民、維新とかの大政翼賛会状態になるよな?おそらく。 
橋下、石原で戦争をあおるからこれってやばいんじゃないか?金持ちの俺は選挙結果が出次第、某アジア国に逃げる準備中だけど。
消費税TPP原発以上にその戦争リスクが急激アップするのが、超やばいと思うんだけど・・・



733 名前:無党派さん
投稿日:2012/12/04(火) 06:39:55.57 ID:+Mgi2JE6
貿易からしてグイグイ自分の首が絞まる構図になるし、レイシズムや女性蔑視法がが横行し国連での立場がなくなる。
ただでさえ国際社会の関係では中国韓国に遅れをとってるのにな。
さらにネトウヨが「愛国無罪」を信じて行動するのもキツい。
いきなりの「やらかし」に対して厳正処罰出来るならまだいいんだが…
(そもそもネトウヨは「怖い」と思いこむ相手には寄らないから、まずは学校の先生とかをしばくのではないかね。)
いずれにしろ日本脱出はいい考えだよ。
今後の日本人はネトウヨだらけになるから



734 名前:無党派さん
投稿日:2012/12/04(火) 06:43:25.72 ID:K7lQs5IO
反動は反動であって長続きするものではない。晩期資本主義には付き物。


739 名前:無党派さん
投稿日:2012/12/04(火) 06:52:49.88 ID:C4wYryIn
外国はそうだろうが、日本はガラパゴスだから長続きすると思う。


916 返信:無党派さん
投稿日:2012/12/04(火) 10:05:33.23 ID:Nrh31Hv4
スペイン・ポルトガルで第二次大戦後も、ファショ/権威主義体制が続いたからあり得るorz




☆フランシスコ・フランコ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B3

フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。

しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、フランコ率いるスペインとの関係の修復を模索し始めた。

1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。

また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。

その後フランコは、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。



☆アントニオ・サラザール

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB

社会改革者として一部左派にまで支持層を広げる一方、全くの敵対勢力は秘密警察を利用して始末した。1933年には新憲法を制定して、「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言、長期にわたるファシズム独裁体制を敷いた。



☆エスタド・ノヴォ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9

エスタド・ノヴォはファシズム指向を持った父権的干渉主義政権である。1932年から1968年にかけ政権の座にあったアントニオ・サラザール首相によって発展した。暴力を前面に押し出して支配しようとするスペインのフランコやイタリアのムッソリーニのファシスト政権よりも緩やかな支配を目標とした。

サラザール政権はポルトガル国民にナショナリズムとカトリックの価値観を強要した。サラザール自身は熱心なカトリック教徒であり、敬虔な信者である国民とポルトガルの国土を守るために経済の先進化が必要であると考えていた。そのため全ての教育政策はポルトガルと海外植民地の高揚を志向した。政権の標語は「Deus, Pátria e Família(神、祖国、そして家族)」。

(略)

サラザールの統治下で、交通網など新たなインフラが整備された。また教育プログラムによりポルトガルの農村部の人々にも初等教育を行う事が出来た。しかし、サラザールは教育が人々の潜在的な保守と宗教的な価値観を破壊すると考え、ごく少数の政権関係者のみに高等教育を奨励した。

エスタード・ノヴォは、国家の父権的管理の下で新たなエリート層の育成を阻み、資本主義における寡占状態を擁護する、イタリア・ファシズム型の統制経済を取った。サラザールは1938年に日独伊防共協定(反コミンテルン協定)に署名することは拒絶したが、ポルトガル共産党は弾圧された。政党は国家連合党(Unido Nacional)のみが合法とされ、一党独裁政治が行われた。

更にファシズム思想の普及を図るために、イタリアの黒シャツ隊を模倣した国民軍団(Legião Nacional)と、既存のボーイスカウトに代わりヒトラーユーゲントを模倣した組織であるポルトガル青年団(Mocidade Portuguesa)などの組織を設立した。これらの2つの組織は、国家の支援の元で青少年に軍隊式の生活を課した。

ポルトガルは19世紀に、死刑を廃止した最初の国であるが、反体制派を弾圧するためにPIDE(Polícia Internacional e de Defesa do Estado、「国防国際警察」の意)と呼ばれる秘密警察を保持した。