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2012年9月19日水曜日

〔パピルス片〕イエス・キリストが「妻帯」していた可能性がやや高まった


☆キリストの発言記したパピルス片発見、「私の妻は」の記載
(CNN.co.jp)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120919-35021911-cnn-int

http://www.webcitation.org/6AmrcZZTj

発表を行ったのはハーバード大学神学校のカレン・キング教授。パピルスの紙片は縦3.8センチ横7.6センチほどの大きさで、エジプトのキリスト教徒が使うコプト語の文字が書かれている。この中に、「キリストは彼らに向かい、『私の妻が…』と発言した」と記された一節があった。

(略)

キング教授によると、内容はキリストと弟子との対話を記録したものとみられ、2世紀半ばごろに書かれたとみられる。表裏の両面に文字が書かれており、書物の1ページだった可能性もあるという。

ただしこの紙片は、キリストが結婚していたとする説を裏付ける証拠にはならないとキング氏は指摘する。一方、キリストが未婚だったことを裏付ける証拠もないといい、キング氏は記者会見で「キリストが結婚していたかどうかは分からないという立場は、以前と変わっていない」と強調した。




《備考》

http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/gospelsup/beloved.htm

ヨハネ福音書には、この弟子のことが全部で5回でてきます。以下でこれら5回の場合を見ていくことにします。

(1)13章23節。ここでこの弟子が初めてでてきます。この弟子は最後の晩餐にいたのですから、12弟子の一人であったことになります(マルコ14章17節/マタイ26章20節)。しかしヨハネ福音書では、この席にいたのはイエスの愛する「世にいる弟子たち」(13章1節)とあるだけですから、出席者は、必ずしも12弟子に限定されているわけではありません。ヨハネ福音書の場合も12弟子たちだけと見ていいとは思うのですが、ほかにだれも「いなかった」ことにはなりません。後で述べるように、この曖昧さが、12人とは別に「愛する弟子」がいたという説を生じることにもなります。

(略)

ただし、晩餐の主人役であるイエスは、身体を起こしていたと思われますから、イエスの右側にいる人が、体を傾けたままイエスに近づくと、ちょうど「イエスの胸もとによりかかる」格好になります(この解釈と異なる説もありますので、後で紹介します)。しかし「イエスの胸もとに」とある原文は、1章18節の「父のふところにいる」と同じ言い方ですから、イエスが父との深い交わりにあるように、その弟子もイエスとの特別な交わりにあることが「イエスの愛しておられた」にこめられているのが分かります。ただし通常食事の席では、イエスの第一弟子は、イエスの左側に座ることになっています。だから、イエスの右側にいるこの愛弟子は、必ずしも第一弟子ではなかったことになります。しかし、ペトロが右側にいたとすれば、わざわざ愛弟子に合図を送って尋ねさせる必要がありませんから、ペトロはイエスの右にいたのはありません。ペトロとこの愛弟子とでは、愛弟子のほうがよりイエスに近い印象を受けます。少なくとも彼は、ペトロに優るとも劣らない立場にいたのです。


(2)19章26節。ここは「愛する弟子」"the Beloved Disciple"となっています。この弟子はイエスの母と共にイエスの十字架刑に立ち会っています。この時、12弟子たちは全員逃げ去ったとありますから(マルコ14章50節/ヨハネ16章32節)、この弟子だけがその場に居合わせたことになります。ただし、ルカ福音書23章49節には、女性以外にも「イエスを知っていたすべての人たち」がそこにいたとありますから、「女性だけ」は、マルコ=マタイ福音書の伝承で、ルカ=ヨハネ福音書の伝承では男性もいたことになります。イエスは十字架の上から母に向かって「あなたの子です」と言いますが、これは、この弟子を母の正式の養子にするように遺言したことを意味します。死に間際に母を誰かに託するのは、ユダヤの習慣だけでなく、ヘレニズム世界で行なわれていたことです。

(略)

ヨハネ福音書19章25節では、十字架の場に「イエスの母とその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」の4人の女性がいたとあります(「その姉妹」と「クロパの妻」が同じ人を指すとすれば3人とも読めます)。マルコによれば(マルコ15章40節)、そこに居合わせたのは、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメです。マタイ福音書では(27章56節)、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、そしてゼベダイの子らの母、となっています。

(略)

これらの節が伝えることから判断すると、最後の晩餐でイエスの右に座し、ペトロと共に復活の証人となり、ペトロと並んで指導的な役割を果たした「イエスの愛する弟子」の存在がここに浮かび上がってきます。




☆マリアによる福音書

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8

前半では、復活した救い主(イエス・キリスト)が弟子たちの質問に答えて啓示を述べ与える対話と、それを受けた弟子たちの間の反応が記されている。

マリアは文書後半部分に登場する。写本では「マリハム」と記されているが、この登場人物はキリスト教の『新約聖書』中に登場するマグダラのマリアのことであると考えられている。 後半部分の概要は次のようになっている。

救い主から福音の宣教を託された弟子たち(使徒)は怯むが、マリアは使徒たちを励ます。

ペトロがマグダラのマリアに対し、「救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。」として、彼女が救い主から授かった秘伝を他の人々にも話すよう求める。

マリアは幻の内に見た救い主の啓示について話す。
アンデレ、ペトロはその内容を信じない。マリアは泣いて抗弁する。
レビがペトロをたしなめ、使徒たちは宣教に出発する。




☆イエスの愛しておられた弟子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%BC%9F%E5%AD%90

イエスの愛しておられた弟子(イエスのあいしておられたでし)、または 愛する弟子 は、正典福音書では『ヨハネによる福音書』のみに登場する人物。伝統的に使徒ヨハネと理解されているが、異論もある。

第四福音書とも呼ばれる『ヨハネによる福音書』の最後にある、上記の記述によってその著者が示される。匿名の「この弟子」は、「イエスの愛しておられた弟子」あるいは「愛する弟子」として同書にたびたび登場するが、他の福音書(共観福音書)には登場しない。 英語では The Beloved Disciple として、しばしば固有名詞的に扱われる。

(略)

「イエスの愛しておられた弟子」が誰にせよ、この人物は少年(あるいは女性)と想像されている。それは次の理由による。

ペトロには「私の小羊を飼いなさい」と教団のリーダーを托され、イエスが最も愛していたと思われるこの弟子にはその種の責任は負わされなかった。この弟子はイエスの母マリアを引き取っている。

「この弟子が死なないといううわさ」が話題になるくらい弟子たちの間で長くまで生きていたと思われる。

成年男子の弟子ならばイエスの仲間としてペトロのように咎められる危険のある、大司祭の屋敷や十字架の下に姿を現している。

最後の晩餐の席でイエスの胸もとに寄りかかっている。

新改訳など日本語訳聖書のなかには、最後の晩餐の場面で「イエスの胸もとに寄りかかっていた」を訳出していないものもあるため、この部分があまり気に止められなかったという事情がある。





http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html
『マリヤによる福音書』 『ベルリン写本』より

救い主の言葉を聞いて、使徒たちは動揺する。

「人の子の王国の福音を宣べるために異邦人のところへ行くといっても、われわれはどのようにすればよいのか」。すると(マグダラの)マリヤが立ち上がり、次のように言って使徒たちを励ます。

「泣かないで下さい。悲しんだり、疑ったりしないで下さい。というのも、彼の恵みがしっかりとあなた方と共にあり、あなた方を護ってくれるのですから」。

これに対してペトロは、「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を、私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を」と要請する。

(略)

・・・・・ペトロがマリヤに言った、
「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話して下さい、あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を。」

マリアが答えた。 彼女は
「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」
と言った。・・・・・・・

(略)

マリヤの言葉を聞いた使徒たちは、その教えを受け入れるべきかどうかについて、次のような論争を行う。

アンドレアス「彼女が言ったことに関して、あなた方が思うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから。」

ペトロ「救い主がわれわれに隠れて、一人の女性と、しかも公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来、われわれ自身が輪になって、皆で彼女の言うことを聴くことにはならないだろうか。救い主が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか。」

マリヤ「ペトロよ、それではあなたが考えていることは何ですか。私が言ったことは、私が心の中で考え出したことであり、救い主について私が嘘をついていると考えているのだとすれば。」

レビ「ペトロよ、あなたはいつも怒る人だ。今、私があなたを見ていると、あなたがマリヤと格闘しているのは、まるで敵対者たちのやり方のようだ。救い主が彼女を認めたのに、彼女を拒否するとは、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、それゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろわれわれは恥じ入るべきであり、救い主がわれわれに命じたやり方で、福音を宣べるべきである。」

レビの言葉を聞いた使徒たちは、あらためて決心し、福音の宣教を開始した。