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2012年8月22日水曜日

〔メモ〕ロシア皇帝がガポン神父と面会していたら「ガス抜き」はできた


ガポン 【Georgii Apollonovich Gapon】

http://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%B3

1870‐1906

ロシアの聖職者。血の日曜日事件の指導者。ポルタワ県の農民の子。神学校在学中トルストイ主義の感化をうけ,1898年首都ペテルブルグの神学大学入学後,労働者街の伝道などに参加。

やがて警察のコントロールする合法的労働運動を提唱するモスクワの保安部長官ズバートフと交わり,1903年労働者喫茶クラブを組織し,それをもとに04年当局の許可を得て〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い(通称ガポン組合)〉を設立した。・・・




▼ 司馬遼太郎「坂の上の雲」より。 ▼

http://kataribedoujinn.at.webry.info/200904/article_934.html

この日、この大衆と家族たちは、日ごろ信頼しているガポンという神父にひきいられ、教会へゆくかわりに冬宮前の広場へ集まてきただけのことであった。

ガポン神父というのは、どの国の革命期にもあらわれる魅力的な扇動者である。農村に生まれ僧侶を志して神学校に入ったが、在学中、トルストイの思想の影響をうけた。

伝道生活をするうち、工場労働者の暮らしむきの悲惨さに同情し、「ペテルブルグ工場労働者クラブ」という団体をつくった。その結成についての資金は、奇怪にも憲兵大尉ズバートフと通して政府の機密費から出たといわれるが、真相がどうであったか、いまでもよくわからない。

かれは労働者に圧倒的人気を得た。この日曜日、請願デモの先頭に立ったとき、何万の大衆を集めえたというのもむりはないであろう。



http://okwave.jp/qa/q3619381.html

Q:血の日曜日事件の主導者ガポンが、皇帝側のスパイだったという記述が用語集などにあるのですが、詳しく書いていないので意味がよくわかりません。
皇帝側があの状況であのような事をするメリットは何でしょうか
日本のスパイとかならまだ解るんですが…



A:

ガポン神父については、100年たった今でも正確な分析や評価がなされていません。
歴史の世界によくありがちな事ですが、一人の人間を一つの面で判断できないものです。

確かに、ロシア秘密警察のズバートフ大尉から資金援助を受けていましたが、この大尉も果たして皇帝や秘密警察の総意で動いていたかどうかよくわかっていません。

クリミア戦争以来、貴族や軍部の間には皇帝の権力を縮小させ英国的議会制民主政治の確立を目指す一派もいて、皇帝側は決して一つの意思で動いていた訳ではないからです。

あるいは、秘密警察を騙して得た資金で反皇帝活動をしていたのかもしれません。
日本やドイツのスパイとして。


そもそも「血の日曜日事件」で、ガポンに煽動された民衆にもし、皇帝が面会し彼らに改革を約束したら・・・

後のロシア革命は起きなかったかもしれないと言われています。

ガポン神父は、皇帝側の指示で民衆の皇帝への謁見を演出するはずだったのが何らかの手違いであのような悲劇になってしまったのか?


あるいは、日本やドイツや革命家たちの指示で民衆の皇帝への反感を増長させるために演出したのか?
または、単に義憤に駆られ民衆救済に動いた「大塩平八郎」的な事
だったのか?
今となってみては、よくわかりません。

ガポン神父も様々な思想や主張を持っていました。
「劣悪な生活を送る労働者たちを救済したい」
「皇帝の宗教的権威で混乱したロシアをまとめたい」
「国家社会主義思想で、ロシアを近代化したい」等等・・・。
場所や相手によってコロコロ変えるところがあり、一体どれが彼の本当の主張なのか、判断に悩むところですがロンドンに亡命中のガポンに会った明石大佐によれば
「あいつは怪僧だ。非常にあやふやな人物だ」
と評価しているところを見ると、単にラスプーチン気取りの人物だったかもしれません。

しかし、当時ロシアにおいて明確で単純な主張をする人間は、たいがい抹殺されました。
皇帝側であろうと、社会革命家であろうと。
ガポン神父の一貫性の無さや多面的な活動は、もしかしたら自分の真の目的を達成するために行った防衛手段だったかもしれません。

以前、何かの本で読んだ受け売りですが・・・。
ガポンの生まれ故郷は、ウクライナの中央部ポルタヴァ。
この地域の言葉は、現在のウクライナの標準語となっているそうです。
彼は、そもそも富農出身。
ロシア革命当時にもあった「ウクライナ分離(独立)主義者」だった可能性もあります。
ロシアの混乱は、同時にウクライナ独立のチャンスですからガポンの活動も何となく、そこにリンクしていたかもしれません。

または、単にロシア正教側の人間として政治的な動きではなく、感情的に「民衆と(正教の長である)皇帝」を救いたいと思っていただけの陰謀家でも策略家でもない人物で各方面から援助を受けていたのは、さほどの意味がない可能性もあります。

すいません。結局明快な回答はできませんが活動期間が短く、非業な死をとげた人物ほど正確な実体はわからないのは仕方がないことだとも思います。