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2012年8月6日月曜日

【決戦】野田政権が「原発国民投票」の実施を決断した形跡


返し技=柔道で、相手が技をかけてきた時、それをはずして逆にこちらからかけ返す技。




☆原発比率「討論型世論調査」 (NHK)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120804/k10014077861000.html

http://www.webcitation.org/69iC72FGL

政府は、各地で開いた意見聴取会とともに、今回の結果を政策決定の参考にしたいとしていますが、具体的にどう反映させるかは明らかにされていません。

             ↓

m.ueno
https://twitter.com/makiueno/status/232391642139729920
具体的にどう反映するか決めていない。という事は、市民参加、国民投票のテストですね。




☆18歳以上、国民投票先行 民主方針、自民と足並み
(産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120806-00000062-san-pol

http://www.webcitation.org/69iCEhJHZ

民主党は5日までに、憲法改正手続きを定めた国民投票法に盛り込まれた投票年齢と、成人・選挙権年齢の18歳への同時引き下げについて、投票年齢のみを先行する方針を固めた。同党幹部が明らかにした。先行引き下げは自民党も主張しており、国民投票法の早期運用に不可欠な課題の解消に向け、二大政党の足並みがそろった格好だ。




《明治政府による「自由民権運動」の沈静化作戦》

☆国会開設の詔

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%96%8B%E8%A8%AD%E3%81%AE%E8%A9%94%E5%8B%85

国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり、国会開設の勅諭)は、1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅。1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。

(略)

これは大久保利通暗殺後の政府部内の主導権争いでもあったが、世論がこの事件に対して激化、民権運動はさらに高揚の様相を呈したため、政府は、近い将来の議会制度確立を約束して、運動の尖鋭化を抑えようとしたものである。



☆自由民権運動

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95

また伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉・中江兆民らまでも自由党から去ることとなった。また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した。

(略)

その後1886年に星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌1887年(明治20年)にはさらに、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化し、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法制定を迎えた。

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