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2012年8月15日水曜日

【予想】電力会社の社長が「怪死」すれば、反原発運動家が殺害したと疑われる


☆松川事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

下山事件、三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官の増田甲子七が、三鷹事件等と「思想底流において同じものである」との談話を発表、世論もそのような見方に傾き、捜査当局は当初からそれらの事件との関連を念頭に置いていた事が伺える。

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、日本共産党の影響下にあった東芝松川工場(現北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行との見込みを付けて捜査を行った。

(略)

この事件は、「日本共産党支持層であった東芝社員らの労働運動を弾圧するためにGHQや警察が仕組んだ謀略である」とする説が事件直後からささやかれた。事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休、警察が余りにも早く現場に到着した点や、事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性の不審死などの不可解な部分があると言われており、これらを元に謀略説の可能性が指摘されている。

事件から20年経った1970年(昭和45年)7月、中島辰次郎が『アサヒ芸能』上で事件の真犯人であると告白、国会でも取り上げられたことがある。中島はキャノン機関のメンバーと共にレールを外した工作の経緯を詳細に語ったが、信憑性を疑う見方も多く真偽は不明である。




☆松川事件60周年記念全国集会

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/55816a91fd5041b6e10bc3a55c46cd89

福島大学OBで、松川資料室研究員の伊部正之・名誉教授は、現役時代から10万点にも上る資料を収集・管理してきた研究者として松川事件の真相について報告しました。

「松川が事故か事件かということで言えば、事件でないと困る者たちがいた。鉄道は軍事施設であり、その破壊は柳条湖事件(戦前、満州で起きた日本軍による満鉄線爆破事件)を見ても明らかなように、政治的利用価値が高かった(ついでに言えば、これに先立つ1928年に起きた日本軍による張作霖爆殺事件も鉄道爆破である)。1947年、静岡県で三島事件という列車転覆未遂事件が起きたが、この時、犬釘が抜かれたものの直線だということもあり列車は転覆しなかった。その後の予讃線でも列車転覆が謀られ、カーブだったこともあり列車は転覆、『これで行こう』ということでその後の松川事件につながっていった。(列車転覆を)仕掛ける者たちも経験を積んだのである。その後、犬釘を抜くだけでは脱線しない場合があることもわかり、次第に線路をずらして確実に転覆するよう仕組まれていった。線路をずらすとなれば、バールや自在スパナでは無理であり、大型ハンマー等の工具が登場した。これらの工具が必要となったことにより、松川事件の検挙容疑となった『4~5人単位』での犯行は事実上不可能だった」

(略)

その上で、伊部名誉教授は、これまでの研究成果を基に、松川事件の「真犯人」を次のように推定しました。

「下山事件と松川事件の実行犯は共通の人物。三鷹事件との関連は今後研究する必要がある。実行犯は少なくとも9人いて、中国からの引揚者。なぜなら旧日本軍が中国大陸で行っていた(謀略事件の)手口とまったく同じだからである。それら引揚者を米国が束ね、管理も米国が行った。事件現場へ実行犯を案内し、地元の一般人が事件現場を通行しないよう監視を行う役目を果たしたのは日本警察である」




《国会議事録より》

第063回国会 法務委員会 第29号
昭和四十五年八月十二日(水曜日)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/063/0080/06308120080029c.html

○青柳委員

(略)

松川事件は、御承知のとおり、もう発生したその当初から、時の政府当局では、増田官房長官が、思想的な背景のある事件であるというふうな、何らの合理的な根拠に基づかずした発言が行なわれ、そして捜査当局がその線を重視して見込み捜査を始めていった。そうして容疑者と思われる者を別件で逮捕して、そして強制あるいは拷問、そういう方法によって虚偽の自白をしいていった。そういう中でいわゆるでっち上げが行なわれたわけでございます。これに関係した捜査関係員というものは、司法警察職員はもちろんのこと、検察職員もそしてまた裁判官も関係しているわけであります。ですから、その数は非常に多いわけでありますが、そういう人たちの責任というものは個人的にも全然国として追及しない。すなわち、上級下級の関係にある法務省のほうでその部下であるところの者、あるいは警察庁でその部下であるところの当事者を取り調べるとかいうような、いわゆる綱紀問題としてあるいは懲罰問題として取り調べるということもやられているように見受けないのであります。もちろん、これにつきましては松川の弁護団が、またこの法務委員会でも政府側に対して質問をいたし、追及をいたしました。これは記録にも残っていることでございますけれども、当時は刑事局長であった竹内現最高検検事総長、またその前に法務省の事務次官にもなられたわけでありますが、何べんにもわたって、もし不正があるならば適当な措置はとる、そのための調査も厳重に行なうというようなことを言明しておられるわけでありますが、一体こういうことについていままでどういうことがやられてきたのか、さらに今後この問題についてどういう措置をおとりになる方針でおられるのか、それをまず最初に承りたいと思います。



○青柳委員

(略)

現にこれは余談でありますけれども、今度アサヒ芸能という週刊誌が、私が松川事件の真犯人だというのを出しましたところが、新聞記者が取材に参りまして、そこにおられる辻刑事局長にもいろいろ談話を求めたようでございますが、辻さんは松川事件の真犯人というのはやはり被告だと思っている、確信を持っているということをこの東京新聞には書いてあるわけであります。こう書いてある。「しかし松川事件に関しては、法務省は起訴後の立証段階で手落ちがあったとはいえ、元被告たちが犯人であるとの確信をいまも変えていない。」という趣旨を述べられ、私が松川事件の真犯人だと言っている中島辰次郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E8%BE%B0%E6%AC%A1%E9%83%8E

という人が言っていることは問題にならぬ、こういうお話でありますが、こういう態度ですと、しかも辻さんは松川事件では主任検事の一人として三、四名の被告の自白を調書におとりになった方であります。したがって、依然として法務省がこの問題については求償権のことについても考えない。国とすれば、当然国を代表する立場で法務大臣があるわけですから、当然のことながらこの問題は研究しておられるはずだと思うのであります。この点はいかがですか。



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☆三鷹事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%B7%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

捜査当局は、1949年(昭和24年)8月に事故によって全国ストライキを起こし、それを契機に革命を起こすという動機で、国鉄労働組合(国労)組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった運転士の竹内景助による共同謀議による犯行として彼らを逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された。

(略)

後の歴史家が注目した、犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたというアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は竹内が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は何故か同僚の証言を関連性なしという理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。

(略)

竹内の供述は無実、単独犯、複数犯など様々な変遷を重ね、最高裁まで7回変更となった。竹内が単独犯を認める供述をしていたのは、共産党系の弁護士から「大した刑にもならないし単独犯として罪を認めて他の共産党員を助ければ、出所後に共産党で高い地位に付けられる」旨のことを言われて、共産党員ではなかったが共産党シンパだった竹内がそれを受け入れたためといわれている(大した刑にならないと述べていた共産党系弁護士は竹内に重罰刑判決が言い渡された後は竹内の面会に全く来なくなった)。

(略)

1949年(昭和24年)7月15日に三鷹駅で大事件が起きるという噂が警察関係で語られていたとの指摘が存在する。暴走電車によって大破した三鷹駅前の交番には4人の警察官が勤務していたが、事件時は交番を留守にしていたため4人全員が助かっていたことなどが傍証としてあげられている。




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http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1949.html

国鉄総裁下山定則氏が第一次の人員整理を発表した7月4日の翌5日の朝、同氏は国鉄の常磐線の線路上で轢死体として発見されました。増田甲子七官房長官は解剖の結果が出ない段階で他殺を示唆し、共産党系労組の犯行を印象づけました。




☆下山事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。

(略)

下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。

(略)

警視庁捜査一課は、末広旅館での目撃証言により、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中と、旅館を出てトンネルと土手で目撃された18時40分までは、メガネをかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言では、ネクタイとメガネを外しており強度の近視でメガネを常にかけていた下山にしては不自然との指摘や、旅館滞在中に煙草を一本も吸っていないのも、タバコ好きの下山にしてはおかしいとの指摘がある(実弟・下山常夫証言『資料・下山事件』573ページ)。

また、下山は東武鉄道の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人とみるか替え玉と見るかで意見が錯綜した。




《ウィキペディア「下山事件」の項から、何者かによっていつのまにか削除されていた記述》           

下山事件が発生した1949年(昭和24年)当時、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。

一方、同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進した。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫ぶような騒然とした世相であった。

この様な世相の中で、下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち続けた。事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われている。当時の増田甲子七官房長官が解剖の結果も出ないうちから他殺を示唆するコメントを発表するなど、当時下山事件の一報を聞いた人の多くが共産党系労働組合絡みと直感するのも無理からぬ状況となっていた。


共産党およびその影響下にあった労働運動は、下山、三鷹、松川事件に関与したと報道されたことによって世論の強い批判を受け、活動の自粛を余儀なくされることとなった。

結果的に、国鉄を含めた各業界における人員整理は、当初予想された混乱もなく日本占領を行う連合国軍及び日本政府の思惑通りにスムーズに進行した。


このような事情から、下山事件には米進駐軍、あるいは日本政府が関わっていたのではないかと囁かれる事となる。作家松本清張は『日本の黒い霧』の中で、米軍CIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が下山暗殺に関わり、下山の遺体は進駐軍専用列車で運搬されたのではないかという説を提唱した。松本の説自体は当時の鉄道運行表の検討からほぼ否定されたが、松本が中心となって発足した「下山事件研究会」では引き続き進駐軍与説を中心に事件の研究が進められた。

「下山事件研究会」の中心人物の一人でもあった上記の朝日新聞記者・矢田喜美雄は、執拗に事件の追跡を続けた成果を1973年(昭和48年)に著作『謀殺下山事件』にまとめた。同書の中で、矢田は取材の過程で米軍防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記述している。

1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件~50年後の真相」の記事が連載された。この内容を元に諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件~最後の証言』が2000年代前半に相次いで出版された。これらの書籍では、事件は元陸軍軍属・矢板玄が設立した組織・矢板機関の関係者が関わった他殺事件と結論付けている。




《矢板機関を設立した矢板玄は岸信介を巣鴨プリズンから釈放することに尽力した人物である》

☆岸信介とCIA (2007年10月13日。オフイス・マツナガ)

http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50454697.html

なぜ、鬼畜米英と叫んだ戦争指導者が、米国の手先になったのか。その秘密を解くカギが最近発売された完全版『下山事件 最後の証言』(柴田哲孝著、祥伝社文庫)にある。

柴田氏の祖父(柴田宏氏)が勤めていた亜細亜産業の社長で戦前の特務機関である矢板機関の矢板玄(くろし)氏の証言に、その秘密が書かれている。以下、矢板証言の注目部分を引用する。
  

〈岸を釈放したウィロビー〉

 (佐藤栄作は、兄岸信介の件で来たのではないか。岸信介を巣鴨プリズンから出したのは、矢板さんだと聞いているが)

 「そうだ。そんなことがあったな。だけど、岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。岸は役に立つ男だから、殺すなとね。しかし、本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、後はカーンだよ。アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」

 注=東条内閣の閣僚で、戦争指導者の一人であり、A級戦犯容疑者として逮捕された岸の釈放については、昨年9月22日付「赤旗」の「まど」欄が、「GHQ連合国軍総司令部のウィロビー少将率いるG2(参謀部第二部)の『釈放せよ』との勧告があった」ことを紹介している。ウィロビーは、直轄の情報機関として、キャノン機関や戦後も暗躍した矢板機関を持っていた。 




《元国土庁審議官である仲津真治氏による「下山事件 最後の証言」(柴田哲孝著)の読後感想文(現在はデッドリンク)》

下山事件は、自殺と他殺の両説がありますが、著者は、轢断死体が、「自殺ならば、つまり生きたまま列車に轢かれたのであれば、当然 現れるはずの生活反応がほとんどなく、また、死体に全くと言って いい程、血液が残存していなかったなどの諸所見から、これは、死後の轢断である」とした東大法医学教室の鑑定を重く見ています。 また、これと併せて、他の諸々の証拠や信用できる証言から、下山 総裁は、死体発見現場から遠くない所で殺害された後、そこへ運ばれ、轢断されたと見るのが相当としています。

そして、この殺害には、祖父の宏氏が戦中から戦後にかけて在職していた亜細亜産業と言う会社が大きく関わっていたのではないかと、膨大な資料や証言から裏付けています。 この亜細亜産業と言う会社は、日本橋室町の通称「ライカビル」の中にあり、業務はパルプ産業や貿易業であり、主に陸軍のために 物資の調達や様々な工作を行っていたとも言われます。 

戦後は、家具や文具、日用雑貨などを扱い、GHQ(連合国軍最高司令部)に納入していたと申します。 

その際、戦中から培われたノウハウや、そこに関係する人々の人脈が活きて、諸々の活動が行われる機関になっていたのでしょうか。その本社所在地は、下山総裁が失踪した日本橋の三越に近く、また、その関係工場や作業場が、轢断現場から遠くないところに点在していることも、本書に記されています。

この会社の社長は矢板玄(やいた くろし)氏と言い、著者の大叔母の寿恵子さんが、「殺したのは宏兄さんではないと思う。」と言い、 事件を「計画したのは、(亜細亜産業)の社長矢板(玄)さんじゃないかと思うんだよね」と語った人物です。 

著者は、この大物の矢板氏にも会っています。平成4年(1992)の2月、その自宅を「柴田宏の孫です。御挨拶に」と言って訪ね、「貴様、何者だ」と聞かれ、日本刀を頭上から振り下ろされ、顔の前で止められると言う、凄まじい体験をしています。それでも、動かず、睨み合っていたところ、「いい刀ですね・・・」と言う、自分でも信じられない言葉が口を衝いて出たと言い、暫くして、矢板氏が大声で笑い出し、「お前、面白い奴だな。・・・」と言って、別室に移り、二人のやり取りが始まったとのことです。著者は、この喜寿を過ぎた人物から、重要なことことを多く聞き、 引き出していますが、再会出来ずに終わりました。矢板氏は、その後、間もなく、亡くなったと申します。そして、この亜細亜産業の人脈が基盤となって、事が計画され、相当数の人間が、個々の役割を果たしつつも、全体像を知らされずに、実行されたと見られると言うのですが、著者は結局、それが 具体的に誰々であり、どういう分担で行われたのかまでは、特定しておりません。 著者のような身内ゆえにアクセスが持て、情報を得やすい立場にあっても、事件はあまりにも複雑多様であり、事件後経過した半世紀前後の年月は長く、人々の記憶も薄れていると言うことなのでしょうか。


著者は、就任後間もない下山総裁が、第一次人員整理宣告の翌日に失踪、殺されたと見られる、その理由として、諸種の証言から、清廉な人柄ゆえ、前職であった運輸次官のとき、既に鉄道に巣くう政財界有力者の汚職を握っていて、不正な取引を切り、取引に伴う単価を下げるなどをしたからと言う見方をしています。また、総裁は、それを切り札に、コストダウンを可能にして人員整理を最小限に食い止めようとしていたと見ています。

他方、作家の松本清張の主張にもありますが、事件がGHQの謀略であったとの推論について、著者は、前年の昭和23年に鉄道汚職で当時の運輸次官が引責辞任していることなどから、当時、実権を持っていたGHQが他の人選をせず、下山氏を大抜擢して運輸次官に就任させ、さらに、国鉄の初代総裁に当てたのは、汚職の番人として送り込んだと見るべきで、そう言う人を亡き者にする分けがないとし、GHQ説を退けています。

ただ、著者は、汚職による金づるが、米側と繋がっていたことを臭わしています。 

文脈からすれば、占領している連合国・・その中心は米国・・の側にも、本国における情報部門の設置など、組織改編等の様々な動きがあり、全てがGHQに一体化されていたわけではなく、また、GHQの内部にも、民政局と参謀二部、キャノン機関とその対抗勢力などのように、複数の流れや主導権争い・対立があったことを記しています。

それにしても、総裁の潔癖な路線やポリシーによって利権が失われるから、殺して、その地位から取り除くと言うのは、相当乱暴な話ですが、戦前・戦中には、その種の発想や行動が決して特異なものではなかったし、それらを計画し、実行する組織があり、人々がいたのでしょう。 

そして、敗戦で大きく変わったとはいえ、戦後暫くは、その種の空気が色濃く残り、そういう組織や人々が存在していたと言えるのかもしれません。 著者は、この点で、下山事件と戦前の張作霖爆殺事件(昭和3年 1928)との類似性を指摘しています。 

後者は、満州軍閥の頭領である張作霖が日本軍部の意図に反して、中央北京への進出を図ろうとしたので、関東軍の河本大佐が国民政府軍の犯行に見せかけて暗殺したものと言われます。 

その事件では、満州鉄道が京奉線と立体交差するガード下を列車が通過する際、爆破が起きました。下山事件の起きた現場と、鉄道のカーブや交差等の情況も良く似た景観を呈しているというわけです。 

著者は、戦前のノウハウや経験が、戦後に活かされたと言う分けで、満州で出来た諸々の人脈が、下山事件に関わっていると示唆しています。

ところで、著者は総帥の矢板氏にいろいろ尋ねる中で、亜細亜産業に戦時中、貴金属が集まってきたと言うことを聞き出しています。当時、戦争遂行のため、広く国民から貴金属を供出させることが行われておりました。 それは私も両親から聞いたことがあります。 

矢板氏によれば、国の機関も関わった金銀運営会と言う組織があり、その事務所がライカビルにあって、集められた貴金属を潰して、金の延べ棒などにし、亜細亜産業に集められていたと言うのです。 

この大量の金の延べ棒を、著者の大叔母の寿恵子さんは、亜細亜産業で事務の仕事をしていたときに、見せられたと言います。これらの金の延べ棒は、戦時中、外国での物資の調達等に充てられたとのことですが、戦後、相当残ったと申します。  

日銀に入庫されたのもあるが、山分けされたり、例のM資金の一部になったと矢板氏は著者に語っています。 M資金とは、よくマーカット資金と言われるものですが、作り話が多く、しばしば詐欺事件が起きています。 でも、この証言で一部は裏付けがあることが分かります。