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2012年7月28日土曜日

中国初の空母「ワリャーグ」が年内にも正式就役する模様


☆初の空母ワリャーグが8月に正式就役か、当局は否定―中国
(Record China)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120728-00000014-rcdc-cn

http://www.webcitation.org/69UNhF6Y1

一方で、ワリャーグがこの1年間に海上でのテストを繰り返し、すでに予定の成果を上げていることを明らかにした。





《日本の負けパターンは「敵を過小評価」したことによる準備不足》

☆白村江の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。



☆三韓征伐

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させた。

(略)

364年4月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退し、残留兵は全滅した。

(略)

400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎(注:騎兵が混じっている点に注目)五万を派遣し、新羅を救援する。




☆ノモンハン事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。しかし、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。

(略)

第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な操縦者を派遣し、操縦者の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16による一撃離脱戦法に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。

(略)

ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるかに及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。満州国内の民間自動車をかき集めるなどの努力は行われたものの、燃料の輸送も十分に行えず、せっかく前線に送られた自動車も有効活用できないことがあった。ソ連側が自動車輸送によって大規模かつ迅速に補給を受けていたのに比べ、貧弱極まる補給態勢だった。この補給量と戦力の隔絶が以後の戦いの帰趨を決したといっても過言ではない。

(略)

また、ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応したのに対して、日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導した為、関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。そのため、政略・外交・戦略・動員・兵站など前線での戦闘以前の段階で日本軍はソ連軍に圧倒されていたのである。


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