(日本テレビ)
http://www.news24.jp/articles/2014/10/21/07261847.html
また、伊方原発より西側の半島に住む住民は陸路では避難できないため、海上自衛隊の船などを利用して対岸の大分県に向けて避難していた。
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★ 台風などで海が荒れている日と、原発事故が重なった場合には、海上自衛隊の船が来ないのでお手上げだと思う。
《「机上の兵法」が大敗したケース》
☆趙括
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%8B%AC
幼少時より兵学に通じており、時には名将といわれた父を論破したこともあった趙括だが、父の趙奢からは決して評価されなかった。「あれの兵法は口先だけのものだ。戦争とは生死のかかったものであるのに無造作に論じている。任用されずに済めばよいが、もし趙括を将軍にすれば必ず負けるだろう」と妻の問いに趙奢は返答したという。だが、趙括自身は名将の息子という名声のもとに兵法の大家を自認し、軍事にかけては自分の右に出る者はいない、と自惚れていた。
(略)
長平の戦いにおいて、当初の趙軍は名将・廉頗の指揮でよく防戦していた。これに対し、戦局打開のために遠征軍の秦では宰相・范雎が一計を案じ「秦軍は老人の廉頗よりも、兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」という流言を広めると、趙の孝成王はこれを信じて廉頗から趙括へ総大将を交代させてしまう。
これを知った趙の重臣の藺相如は死期の迫った病の身を厭わず参内し「趙括は兵法書を丸暗記しているだけの未熟者、戦場での臨機応変の重要さを理解していません」と諌めたばかりか、趙括の母までもが亡夫の遺言をもとに、趙括の将軍起用を取り下げるように王へ直訴したが容れられなかった。代わりにどんな結果でも一族などに罪を及ばせぬように、との趙括の母の願いだけは、孝成王も認めている。
前線に到着した趙括は廉頗の持久戦法から一転、秦軍に対し攻勢を仕掛けたが、歴戦の勇将である白起将軍の囮作戦にかかり、軍を分断され大敗を喫する。さらに秦軍の包囲によって糧道を断たれた趙軍40万は飢えに瀕し、味方を殺しあって人肉を奪い合う窮状に陥った。
趙括は僅かに残った健常な兵を率いて秦軍への突撃を敢行したが、趙括はあえなく矢で射殺された。
統率を失った趙軍は降伏し捕虜となったが、40万人もの投降兵を養うだけの食料は秦軍にも無かった事で、白起の判断によって僅かの少年兵を残し投降の趙兵すべてが生き埋めにされた。このため趙は国力を大幅に低下させ、その滅亡を早めることになる。
☆馬謖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%AC%96
並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。
ただ劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。
(略)
建興6年(228年)春3月、諸葛亮は第一次北伐に際し、彼に戦略上の要所である街亭(甘粛省安定県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮が道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまった。このため副将の王平がこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。
その結果、魏の張コウらに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した。