勝海舟bot
https://twitter.com/#!/KatsuKaishuBot/status/199983508133912577
丁汝昌も、いつかおれにいつたことがあつた。わが国は、貴国に較べると、万事につけて進歩は鈍いけれど、その代り一度動き始めると、決して退歩はしないといつたが、支那の恐るべきところは、実にこの辺にあるのだ。かれこれの長所短所を考へ合はして見ると、おれは将来のことを案じるヨ。
☆中国の進出懸念…首相、NATO事務総長に親書 (読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130112-00000549-yom-pol
http://web.archive.org/liveweb/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130112-00000549-yom-pol
安倍首相が、北大西洋条約機構(NATO)のラスムセン事務総長に親書を送り、中国の海洋進出に対する懸念を伝えて連携強化を求めることが12日、明らかになった。
首相は親書で、中国による尖閣諸島(沖縄県)周辺での領空・領海侵入を念頭に、「中国の海洋進出の活発化と北朝鮮の動向などにより、東アジアの安全保障環境は厳しさを増している」と指摘。日本が東アジア地域の安定と繁栄に積極的役割を果たす考えを表明する一方、東アジアの「戦略的環境の変化」について、NATO側に認識の共有を呼びかける考えだ。
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290015052801658880
安倍首相が北大西洋条約機構(NATO)のラスムセン事務総長に中国の海洋進出を警戒して連携強化するよう求める親書を送るらしい。中国とNATOとの関係を考えると、これは驚くべきことだ
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290016317623373824
NATOは1999年にベオグラード駐在の中国大使館を空爆し、中国側に死者3人、負傷20人以上の重大な被害をもたらした。直後に、中国国内ではNATO加盟国の大使館に市民のデモが毎日押し寄せた。NATOと米国は誤爆だったと謝罪し、巨額の賠償でようやく解決を見た
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290016464637919232
近年、NATOは苦戦を強いられてきたアフガン復興に対する中国の支援を期待し、ソマリア沖での中国の海上警備活動を評価している。ラスムセン事務総長も「私は、中国を脅威とみなしていない」として、中国を「パートナー」と位置づける発言も行っている
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290016585362587650
2010年6月には中国人民解放軍の高官級代表団がNATO本部を初訪問。2012年2月には逆にNATOの制服組高官級代表団が中国を初めて訪問。NATO加盟国にはドイツなど良好な対中国関係を築いている国も多く、「反中国同盟」にはなりえない
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290016760088899584
安倍首相は第1次安倍内閣当時の2007年にNATO本部を訪問し、「日本とNATO~更なる協力に向けて」と題して演説。日本は中国と「戦略的利益に基づく相互互恵関係」を構築したと紹介しつつ、中国の「急速な国防費の増大」などへの警戒を呼びかけた
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290016990310039553
安倍首相は、当時からNATOと協力して中国包囲網をつくろうと考えていたのかもしれない。だが、NATO内部でもアフガン問題、リビア攻撃などをめぐる意見対立が表面化しており、なおさら敏感な中国との関係で一枚岩になれるような軍事同盟ではもはやない
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290017112666296322
尖閣問題で中国と「交渉する余地はない」と言明した安倍首相は、米国などNATO加盟国も中国と対決してくれる「同盟国」だと考えているのだろう。だが、日中間の領土・領海問題や海洋権益の問題に巻き込まれたいと願う国が、はたしてどこかに存在するだろうか
赤旗政治記者
http://twitter.com/akahataseiji/status/290017476853501953
中国への警戒で連携を求める日本の呼びかけ。少なくともNATOにとっては、あの巨額の賠償を強いられたベオグラードの事件と中国との対立の悪夢を想起させる以外の何ものでもないだろう
《おまけ》
☆米に乗せられたグルジアの惨敗
(2008年8月19日。田中宇の国際ニュース解説)
http://tanakanews.com/080819georgia.htm
グルジアが侵攻したタイミングについて、アメリカの分析者の間では、別の分析も出ている。8月7日が選ばれたのは、翌日から米大統領選挙戦で優勢な民主党オバマ候補が、夏期休暇で故郷のハワイに戻って選挙活動を1週間休んだためであり、ブッシュ政権が、共和党マケイン候補を挽回させるために、グルジアのサーカシビリを焚きつけて侵攻させたという推測である。
(略)
米大統領選挙では、オバマが「敵とも対話する」という姿勢を基点にしている半面、マケインはもっと好戦的で「ロシアをG8から除名すべきだ」といった、冷戦体制の復活をめざす言動が目立つ。グルジアでの戦争勃発前は、米マスコミの論調はオバマびいきが強く、マケインに批判的だったが、開戦とともに俄然、マケインの出番が多くなった。
(略)
サーカシビリは、自国とロシアが戦争になったら、米軍が飛来して助けてくれると期待したのだろう。有事の援軍の約束を米政府中枢からとりつけない限り、小さなグルジア軍が巨大なロシア軍に戦争を仕掛けても勝てない。しかし実際には、米軍は来なかった。米政府が出すことにしたのは、被災者への人道援助だけだった。グルジアの政府や世論は「アメリカに裏切られた」という怒りに満ちた。
☆昭和天皇の戦時の肉声、元侍従の日記見つかる
(2007年3月9日の朝日新聞)
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/881.html
日中戦争についての天皇の思いも吐露されている。「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(40年10月12日)、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」(41年1月9日)。
(略)
「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」
☆平沼騏一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E
また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結され、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としつつ軍事同盟をドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。
☆日本の降伏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F
6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルへキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の木戸幸一と東郷、米内光政海軍大臣は、戦争の際限ない長期化を憂慮し、ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した。しかし東郷は広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、満州国の中立化などを提案しているが、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった)ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた。東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった。
しかし、すでにソビエト連邦は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。
5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官からソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたりモスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたりしていたが、これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、希望的観測のもとに軽視される結果となった。
7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「ノーコメント」とする方針を取り8月の広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦を回避することはできなかった。
(略)
スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。また、小野寺信駐在武官もナチス・ドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作を行っている。だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた